"せいしょこさん"として親しまれ、人々の信仰篤い加藤清正公をご紹介します。
加藤清正公は、安土桃山時代に活躍した武将です。『せいしょこさん』として、在世から現在に至るまで庶民に愛され、親しまれています。また、熱心な日蓮宗信者としても知られており、現在多くの日蓮宗寺院に守護神として勧請され、人々の信仰を集めています。
清正公は一五六二年、尾張の土豪である加藤清忠の子として尾張国愛知都中村(現在の愛知県名古屋市)に生まれました。血縁関係にあった豊臣秀吉に仕え、肥後北部の領主となります。肥後入国の際、かつて大阪に創建した本妙寺を熊本城内に移建し、以降日蓮宗を手厚く外護します。このため領内に相次いで日蓮宗寺院が建立され、本妙寺を中心に西九州における日蓮教団の教線は飛躍的に拡大しました。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いで武功を挙げて肥後一国を与えられ、初代熊本藩主となりました。数々の武勇伝を持つ清正公ですが、なかでも賤ヶ岳七本槍の一人としての戦功、朝鮮の役での活躍、および虎殺しの逸話などが有名です。
朝鮮出征に先立ち、帰依僧である京都本圀寺の日ワ辮lに法華経一万部読誦会を依頼し戦勝の祈願を行いました。文禄の役には秀吉に授与された南無妙法蓮華経の題目旗をひるがえして戦場を駆け巡ったと言われています。本妙寺第三世日遥、小湊誕生寺十八世日延は、清正公が朝鮮から連れ帰り養育した人物です。
清正公は築城の名手でもあり、特に大きな反りを持たせた独特の石垣の積み方が知られています。日本三大名城に数えられる熊本城を築き、朝鮮出兵の際現地に築城した蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わりました。
また、領内の治水事業にも力を注ぎ、熊本県内には現在も清正公による遺構が多く存在します。特に、清正公が熊本へ赴任した当初、領内の河川が年中氾濫を起こし、水害が深刻でした。
藩主となった清正公は、この水害を除くための大々的な治水工事に取り組み、暴れ川の鎮圧にあたります。領民達にきちんと給金を払い、必要以上の労役を課すことなく、農事に割く時間を確保するなどの配慮のため、領民たちも男女の別なく事業によく協力したといわれています。
加藤清正といえば、どうしても剛の武者という印象が強いのですが、このように実際は卓越した行政手腕も持ち、まさに戦国時代を代表する智勇兼備の名将だったといえるでしょう。
慶長十六年(一六一一年)三月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持った後、帰国途中の船内で発病し、六月二十四日に熊本で死去。享年五十歳。
清正公の没後、清正公に対する崇敬と熊本における庶民信仰としての御霊信仰が結びつき、治病除災の神として清正公信仰が興り、それが全国に波及し、今日に至ります。