松尾山中興の祖・久遠成院日親上人の御生涯を紹介します。
日親上人は、応永十四年(一四〇七)に、上総国埴谷(千葉県山武市埴谷)の、埴谷氏一族にお生まれになり、埴谷氏が信仰していた中山法華経寺(千葉県市川市)の日英上人の弟子となられました。
応永三四年に中山をたって上洛され、伝道活動の第一歩として一乗戻橋のたもとで説法されました。
やがて「九州の導師」として、肥前国小城郡松尾(佐賀県小城市)の光勝寺へ下向され、ここで教団の指導にあたられました。それまでの光勝寺は中山法華経寺と両山一主制(兼任)でしたが、初めて専任の住職として日親上人が迎えられたのです。
ところが、日親上人は厳格な日蓮宗の信仰を主張され、領主の千葉一族を厳しく批判されたために、永享九年(一四三七)ついに破門されて光勝寺を去り、再び上洛されました。
佐賀県内には光勝寺をはじめ、日親上人により開かれた寺院、他宗より改宗された寺院や、霊跡が数多くあります。
その翌年、将軍足利義教に対して、日蓮聖人の教えを信奉し他宗の信仰を捨てることを直訴されましたが、まったく顧みられませんでした。そこで再び諫暁を試みようとして『立正治国論』を著され、これを浄書しているうちに捕われて牢に入れられました。牢の中で日親上人はいろいろと厳しい刑罰を加えられましたが、その翌年に将軍が謀殺されたので、特別の恩赦によって出獄されました。
この後、日親上人は、京都に本法寺を建立されてここを本拠とし、全国各地を廻って伝道につとめられました。ところが日親上人の主張は日蓮聖人の教えを守ることを厳しく要求し、他宗を激しく攻撃するものでしたから、行く先々で迫害を受けられました。熱く焼けた鍋を頭にかぶせられても信念を貫いたといわれ、「鍋冠日親」と呼ばれるようになりました。
幕府はこのような伝道活動を続ける日親上人を罰し、寛正三年(一四六二)、再び牢に入れられましたが、その翌年八月には臨時の大赦が行なわれて、自由の身となられました。
これより日親上人は、自らの伝道の旅に赴かれることは少なく、京都本法寺を本拠に教団の整備を積極的に進められました。
八二歳になられた長享二年(一四八八)九月、日親上人は病にかかられ、伝道と法難の生涯を終えられました。
松尾山光勝寺中興の祖・久遠成院日親上人にゆかりのある佐賀県寺院をいくつか御紹介します。
日親上人が「九州の導師」として佐賀におられた期間は実はそう長くはありません。諸説ありますが、長くとも十年ほどです。
しかし、その期間に日親上人が開かれた寺院や、布教や法難の場所が後に寺院となった場所が、県内にはたくさんあります。
日親上人が松尾山光勝寺の住職として下向された際、この地にあった妙見社で、二十一日間のご祈願の後に入山されたので、山号を「休息山」と号されました。
以来、名僧や高僧は、親成寺に立ち寄られ、衣の着替えなどをされてから光勝寺に向かわれるようになったそうです。
日親上人が三ヶ島の里で百日間説法をされ、その最後の日に説法された場所より東に五〇〇メートル程の場所が光り輝いていたので、村人が掘ってみると、お釈迦様の仏像が出現しました。この仏像をお祀りするお堂が、妙勝寺の始まりです。
日親上人のお題目布教を不快に感じた禅林寺の僧が、庄屋の犬山家と謀り、日親上人を井戸に放り込んで石を投げ入れました。しかし、犬山家の一人息子が身代わりとなっていたので、犬山氏は懺悔し、息子の蘇生を頼みました。日親上人の祈祷により一命を取り留めたので、犬山氏は日親上人に帰依し、禅林寺の僧も「日如」と改名し、寺号も「常円寺」と改称されました。
日親上人が岸壁に御題目を彫られていましたが、「南無妙法蓮」の「蓮」の途中まで彫られたところで佐賀を離れる事となられてしまいました。
後年、朝鮮出兵の為に名護屋城へ向かわれる加藤清正公がこの峠を通られる時に、乗馬が膝をつき動かなくなってしまったので、馬を下りてみると岸壁に書きかけの御題目を見つけられました。そのままにはしておけないと、槍先で残りの文字「華」と「経」を書き足されたと伝えられています。この宝塔を「書きかけの御題目」や、「膝折坂の宝塔山」と呼ぶようになったそうです。
ご紹介出来ませんでしたが此の他にも幾つもの言い伝え等があります。それらはいずれも日親上人の御題目信仰や布教に対する厳しさを顕したものであると言えます。