日蓮大聖人のご生涯

混沌とした鎌倉時代には様々な宗派が興りました。その中で法華経こそが最勝の教えであると私達にお示し頂きました日蓮大聖人のご生涯をこれからたどって参ります。


日蓮大聖人は今から七十七年前、貞応元年(一二二二)二月十六日、安房の国(千葉県)小湊に漁夫の子としてお生まれになられました。幼名を善日麿といいます。天下分け目の戦いともいわれた承久の乱の翌年の年のことであります。

家柄などについては、父の貫名重忠は、遠州(静岡県)貫名の郷主でありましたが、わけがあり小湊へ流されました。母梅菊は、舎人親王十代の子孫で下総の国(千葉県)道野辺に住む大野吉清の娘であったと伝えられています。

小湊の海辺で幼年時代を送った善日麿は、十二歳の夏五月に両親の許しを得て、故郷にほど近い清澄寺に入られました。清澄寺は、標高三八三メートルの清澄山の山頂近くにあります。山は海辺からいきなり立ち上がって道は険しく、うっそうとした森に覆われて、古来よりこの地方の山林修行の聖地でした。

寺のご本尊は、智恵・功徳・慈悲が虚空のように無尽蔵であるといわれる虚空蔵菩薩です。宝亀二年(七七一)に不思議法師という行者が堂を建て、虚空蔵菩薩を祀ったのが始まりといわれています。そして承和三年(八三六)慈覚大師円仁によって天台宗に改められ、善日麿が入山された当時も天台宗の寺でありました。善日麿は、道善房という師のもとに十六歳で出家し、名も是生房蓮長と改められました。

善日麿が出家された動機は、「日本第一の智者となしたまえ」、すなわち仏の智慧を求め、お釈迦様の説かれた仏教は一つなのに、なぜ八宗十宗もあるのかという疑問を解明するために、真理を究めたいという思いからのことでした。

清澄寺での修行は、まず第一に学問・思索であり、天台密教の加持祈祷、そして当時の一般信仰である念仏往生(仏の姿や功徳を心に思い浮かべ、口で阿弥陀仏の名を唱えることでした。そして、往生とは極楽浄土に生まれ変わることを指します。つまり「南無阿弥陀仏」と唱えながら来世に望みを託すこと)の修行でした。が、その様な中でも暇さえあれば虚空蔵堂に籠られご宝前で祈られていた蓮長の前に奇瑞が表われたのです。それは、虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現れ明星のような智恵の大宝珠を授けて下さった、というものです。

清澄寺に残る伝説では、この奇瑞を感じた蓮長は堂を退いて階段を下るとき、心身混蒙して凡血を吐き気絶して倒れてしまいました。その血を吐いた所に黒い斑点のある笹が後で生えたのでこれを「凡血の笹」と呼ばれています。つまり、凡夫の血を吐き捨て仏弟子として歩み始めたことを示す象徴的な出来事だったのです。

この神秘体験の後「一切経を見るに八宗ならびに一切経の勝劣が手に取るように明らかになった」といわれる蓮長は、年来抱き続けてきた疑問を説く経典も、自分を導いてくれる師も清澄寺には存在しないことを感じ、暦仁元年(一二三八)十七歳で清澄山を下りられます。そして、それは、以後十数年に及ぶ研鑽の旅の始まりでもあったのです。

遊学〜鎌倉へ

清澄寺は房州地方では屈指の大寺であったものの、向学心に燃える日蓮大聖人にとっては到底満足しうるところではありませんでした。当時の政治・文化の中心地から離れた房州清澄では、人材や書籍などあらゆる面において学問研究の充実を期することは不可能に近く、更なる修学のため諸国諸山遊学へと旅立たれたのです。

一二三八(暦仁元)年より北条執権政治の中心地・鎌倉へと遊学されました。念仏・禅を中心とした信仰仏教が生き生きと鼓動する鎌倉の地にとどまり、経論を紐解き、師を尋ね、渇者の如く法を求めて学習を深めて行かれたのでした。四年間にわたる鎌倉遊学を終えた一二四二年、「安房国清澄山住人蓮長撰」と署名のある『成体即身成仏義』を述作されました。これは学問研究を集大成し、清澄寺へ提出した報告論文のような性格のもので、日蓮大聖人の最初の著述であるとともに「蓮長」の名で書かれた唯一の著書であります。(幼名の善日麿より、出家に伴い十六歳の時より是聖房蓮長と改められる)

遊学〜京畿へ

二十一歳になられた大聖人は「お釈迦様のご本意を知る」という大志を抱き、伝統的文化と仏教の中心である京畿を目指して遊学の途につかれました。比叡山・園城寺・高野山等諸宗諸山を回り、清澄や鎌倉では学び得なかった仏教の奥義を修学されたのでした。中でも比叡山はもっとも充実した勉学の地で、横川を拠点に比叡山での修学に勤められました。「お釈迦様のご本意を知る」それは単なる知識の習得ではなく、一切衆生を導き、そして救済する無上の教えに生きることを意味していた。そしてついに最勝の法を覚知されたのでした。それは純粋な法華経信仰の世界に生きること、法華経信仰に「お釈迦様のご本意」を確信されたのでした。

お釈迦様の真実を覚知された日蓮大聖人の目には、念仏・禅・真言・律等の各宗が充満した当時の社会は「一同に謗法」と映り、後に国を諫め、諸宗批判へと進まれたのもこのような現状を憂えてのことでした。

自然災害に加えて、社会・政治の変動による価値観の変遷、民衆は飢え、病み、混沌とした今日こそ法華経(正法)への帰依の必然性を説かなければならない。これまでひたむきに研鑽の日々を重ねてきた求道者・日蓮大聖人は、お釈迦様のご本意・法華経の弘通者として新たな旅立ちを心に誓い、十年間に渡る京畿への遊学を終え、故郷房州へと歩みを進められたのでした。

開宗宣言

法華経こそがお釈迦様の真実の教えを説かれた経典であると確信された日蓮大聖人は、両親や師匠の待つ故郷へと向かわれます。法華経によれば、末法の世にこの経を弘める者には様々な迫害や法難が待ち受けている、とありますが日蓮大聖人は、「これを申さば必ず日蓮の命となるべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩を報ぜんが為」とまさに命がけで弘経なされる決意をされました。ついに一二五三(建長五)年四月二十八日、出家得度なされた清澄寺の旭ヶ森にて東方のはるか太平洋上から昇りくる朝日に向かって力強く「南無妙法蓮華経」と初めてお題目を唱えられました。これをもって我が宗では「立教開宗」と申します。その後、それまでの名(蓮長)を(日蓮)と改名されました。その由来は「明らかなること、日月に過ぎんや、浄きこと蓮華にまさるべしや。法華経は日月と蓮華なり。ゆえに妙法蓮華経と名づく。日蓮又、日月と蓮華との如くなり」と申され、闇を照らす日月、泥沼の中にあっても美しい花を咲かせる蓮華。そのように世の中の人々を救済していこう、という決意のこもった改名なのでした。

旭ヶ森での立教開宗の後、清澄寺にて初めての説法が開かれることになり、大勢の人々が持仏堂に集ってきました。そこには地頭の東条景信をはじめ多くの念仏の信者がいたのです。その大衆に向い日蓮大聖人は「法華経以外の法を尊び念仏や禅の信仰をする為に色々な災難に見舞われるのである。法華経こそが真実の仏法なのだ」と仰せになられました。すると聴衆のほとんどの念仏信仰の者は憤り、東条景信は日蓮大聖人を殺してしまえというほどに激怒しました。その後、日蓮大聖人は故郷を後にし、再び鎌倉に出られ法華経伝導の決意をなされたのでした。

鎌倉辻説法

鎌倉に入られた日蓮大聖人は松葉谷に草庵を構え、そこを拠点に本格的な法華経流布の活動を開始されます。

当時の鎌倉は天変地異や火事や疫病などに再三見舞われ、庶民はまさに地獄の苦しみを味わっていました。こうした状況の下で日蓮大聖人は民衆を救済する為に鎌倉の街で「法華経に帰依せよ」と呼びかけます。しかし、その叫びは念仏や他宗の信心に固まった大衆の反発と憎悪を買うばかりで罵倒や投石が絶えませんでした。しかし、日蓮大聖人は、法華経弘通には迫害を受ける事は、すでに法華経に予言されている通りの試練であり、まさに法華経の行者である確信を深めていかれたのでした。そして、その日蓮大聖人の熱心な布教活動により、弟子や信徒も数を増し次第に日蓮教団の形成がなされていったのでした。

立正安国論

当時鎌倉では、台風、大洪水、疫病、飢饉等、天変地異が重なり、人々は苦しみにあえいでいました。

大聖人は原因の究明のため、駿河岩本の実相寺の一切経蔵に入られ、一切経をお読みになられました。その結果、正法(法華経)を謗り、邪法(禅、念仏等)を信じるならば、その国に三災七難が起こる。未だ起きていない自界叛逆難(国内の戦乱)、他国侵逼難(外国の侵略)も必ず起こるであろうと予言され、国土の平和をもたらす教えは法華経であるので、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」と主張された『立正安国論』を一二六〇年(文応元年)に著され、当時の最高権力者、北茶時頼に上奏されました。

松葉谷法難

『安国論』の上奏に対し、幕府首脳からは何の返答もありませんでしたが、念仏者の反感は激しく、八月二十七日、松葉谷の草庵に火を放ちました。

大聖人は危うい所を逃れられ、難を避けられるために、下総に所領を持つ富木常忍のもとへ行かれ、ここを中心に約一年の間、布教の日々を送られました。

一説には、この時大聖人の為に建てられたお堂が現在の中山法華経寺であるとも言われています。

富木常忍は深く大聖人に帰依し、後に出家して常修院日常と称し、大聖人の教えによく通じ、中山門流の祖と仰がれるに至った方です。

伊豆法難

一二六一年(弘長元年)春、大聖人は鎌倉へ戻られ、以前にも増して強く法華経への帰依を訴えられました。

これを快く思わぬ執権、北条長時は、大聖人の伊豆配流を決め、五月十二日、大聖人は不当に捕らえられ、由比が浜から伊豆へ流されました。

伊豆の伊東へ到着したものの、役人は、俎岩と呼ばれる小さな岩の上に大聖人を置き去りにしました。満潮で、あわや一命を潮の中に没されようという時、船守弥三郎という漁師に助けられました。弥三郎夫妻は大聖人を匿うのみならず、法華経に帰依し、大聖人に給仕をしたのでした。

伊東の地頭、伊東八郎左衛門も、大聖人に病気平癒の祈願を請い、御祈梼にて見事に回復し、法華経に帰依した一人です。

大聖人は伊東におられる間、行住座臥つねに法華経をお読みになられ、また、『教機時国鈔』などの大事な御書もしたためられるなど、伊豆での流罪生活を送っておられました。

一二六三年(弘長三年)二月二十二日、大聖人は御赦免になり、鎌倉へ戻られました。

小松原法難

鎌倉へ戻られた大聖人は、その年か翌年頃、御母堂様の病気看護の為安房へ御帰省なされ、その後、安房で布教をなされておられましたが、一二六四年(文永元年)十一月十一日、大聖人の一行約十名が、東条の松原の大路にさしかかった時、東条景信はじめ多くの念仏者に襲撃され、弟子鏡忍坊は殉死、二名は重傷し、大聖人も額に三寸ほどの傷を受けられ、死に直面する大難となりましたが、幸い危機を逃れられました。

大聖人は、法華経の「一切世間怨多くして信じ難し」(安楽行品)を身をもって読まれた事実を、法華経の行者としての自覚とされ、「されば日本国の持経者はいまだこの経文にあわせたまはず、唯日蓮一人こそ読みはべれ、我身命を愛せずただ無上道を惜しむとはこれなり、されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」と、『南條兵衛七郎殿御書』に語っておられます。

祈雨

文永五年蒙古からの国書到着以来、自らが予言した他国侵逼難(外国からの侵略)の実現の近い事に危機感を抱かれた日蓮大聖人は前にも増して激烈な宗教活動を展開されていました。時の執権・北条時宗に「立正安国論」を読み返すように迫ったりもしましたが幕府は前回同様何の返答もなく黙殺されたのです。

文永八年の夏は干天が続き、幕府は真言律宗の良観房忍性に雨乞いを命じ、良観は極楽寺・多宝寺の僧を動員して修法に入りました。日蓮大聖人は、恐らく良観仏教の呪術性・非精神性をあばいて幕府の宗教観を醒ませようと思われたからでありましょう。極楽寺に使をやって「七日の内に雨があれば自分は良観の弟子になろう、もし降らなければ法華経に帰せよ」と言い送り、ついに雨は降らなかった。社会事業を盛大に行って鎌倉中から生き仏と崇められる良観は、負けた悔しさから日蓮大聖人の排斥運動に専念するようになりました。

召し捕り

日蓮大聖人への怨みを深めた良観は表面だって動き始めました。法律を守るべき役人も、生き仏とまで云われた人には逆らえず、法に従わず人に従って動いたのです。一応日蓮大聖人の意見を聞くと云う形をとったものの、文永八年九月十二日、平左衛門頼綱を先頭に多くの兵士が戦に行くようないでたちで草庵に押しかけ、なぐるけるの暴行を加えたうえ、お経本を破り家中をかき回しました。

日蓮大聖人たった一人を捕えるにしては余りにも派手な事ですが、これは幕府の権威を鼓舞する思いと、鎌倉中に大聖人がいかに重大犯罪人であるかを宣伝するねらいがあったのでしょう。

龍口法難

捕えられた日蓮大聖人は、はだか馬に乗せられ、江の島片瀬龍の口刑場へと引かれていったのです。知らせを聞いた信者の四条金吾達も、一緒に死ぬ覚悟で駆けつけました。いよいよ首を切ろうと役人が刀をかまえたとたん、江の島の方角から不思議な光の玉が飛んできて、役人は驚いて逃げ去り処刑どころではありません。幕府は処刑命令を撒回し、日蓮大聖人は九死に一生を得られたものの、遠国佐渡へ流罪の身となられたのでした。

種種御振舞御書

文永八年大歳辛未、九月十二日御勘気をかおる。その時の御勘気のようも常ならず、法にすぎてみゆ。〜略〜今夜頸切られへまかるなり。この数年が間願いつる事これなり。日蓮、貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度、頸を法華経に奉りてその功徳を父母に回向せん。其あまりをば弟子檀那等にはぶくべし、と申せし事これなり。

佐渡での生活

一二七一年(文永八年)十一月一日、日蓮大聖人は佐渡ヶ島の塚原に送られ、一間四面の粗末な三昧堂を住居としてあてがわれました。当時の塚原は死人を捨てる共同墓地のようなところでした。

しばらくの間、日蓮大聖人はこの三昧堂で念仏の信徒と法論を戦わす日々を過ごされました。その中でも熱烈な念仏の信者であった阿仏房は「法華経が成仏できて、念仏は無間地獄というにはどういうことか」と刀を抜いて問い詰めましたが、結局は自分の誤りを指摘されその場で念仏を捨て、法華経に帰依されるようになりました。

阿仏房はそれからというもの監視の厳しい中に毎晩夫婦交代で百日間もの間、日蓮大聖人に食料を運んでいます。その功徳は千日の修行にも勝るということで、妻に千日尼、阿仏房には日得という法号が与えられています。

三大誓願

この供養によって命を長らえることが出来た日蓮大聖人は一二七三年(文永九年)に「われ日本の柱とならん。われ日本の眼目とならん。われ日本の大船とならん」との三人誓願を立てられ開目抄を著述されました。この「開目抄」という題名は信仰に対する人々の盲目を開くという意味で、我こそが法華経の行者、末法における師であるということを強く現されたことから、<人開顕の書>といわれます。

翌年、日蓮大聖人の予言していた国内の内戦が的中したため幕府はこの霊力に驚き、佐渡の豪族、一の谷の入道清久の屋敷に移されました。そしてそこでは、本尊について、また、本尊を観ずる心のあり方についても示された「観心本尊抄」をお書きになられました。こちらは、<法開顕の書>といわれます。一の谷では一二七三年(文永十年)七月八日に信仰の対象であります大曼荼羅を図顕なされました。

赦免

一二七四年(文永十一年)二月十四日、執権・北条時宗の決断によりついに赦免が決定しました。二年数ヶ月による佐渡での配流生活は苦難に満ちたものでしたが、日蓮大聖人には大きな転換期であり、また意義のある流罪でした。三月八日には弟子の日朗が赦免状を携えて到着、その後阿仏房夫妻や信徒に別れを告げ十三日には佐渡ヶ島を後にされました。

三度目の諫言

この年の四月八日に、執権北条時宗の招きで幕府に出頭された大聖人は、蒙古の襲来は恐らく今年中であろうと断定され、国家の安全を得ようとするならば、一刻も早く他宗の信仰をやめて、法華経を信仰する事を強く主張されました。

身延御入山

しかしながら大聖人のこの主張も、幕府には何の効果もなく、大聖人は中国の故事に倣われ、隠栖の道を選ばれ、五月十七日に、波木井実長公の招きで、身延山へ御入山されました。

身延での御生活

身延山での大聖人は、門下の教導と著述に専念されました。御在山中に認められた御文書は二百九十余篇を数える程です。この中には、『法華取要抄』や『撰時抄』という、宗義に関わる大事な御書もあり、また、師の道善房の追善に棒げられた『報恩抄』もあります。

「昼夜に法華経を読み、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも事ならず」(『松野殿女房御返事』)と、身延山を法華経の根本道場門下育成の聖地と讃えられ、大聖人の魂魄を永遠に留め置く「棲神の地」と定められて、聖なる山であることを強調されています。

身延から池上へ

身延にあって、弟子や檀越の教導につとめられていた大聖人は、次第に衰えられました。衰弱された心身を癒すべく、弘安五年(一二八二)九月、足掛け九ヶ年住み慣れた身延をあとに、常陸の湯に向われました。病身の大聖人にはこの旅は大変厳しいものであり、武蔵の国の池上宗仲公の館に留まらざるを得ませんでした。

再起が困難であることを悟られた大聖人は、『立正安国論』の最後の御講義をなされ、六老僧の選定、帝都開教の委嘱をされて、十月十三日辰の刻(午前八時)六十一歳の御生涯を閉じられました。

大聖人の御生涯を偲び、御命日を期して、報恩の誠を捧げる法会が「御会式」です。この御会式に「万灯供養」を行うのは、大聖人の御入滅の時に、桜の花が咲きほこった事に由来します。

「日蓮さきがけしたり、わとう共、二陣三陣つづいて、迦葉・阿難にもすぐれ天台・伝教にもこえよかし」と『種々御振舞御書』に書かれてありますが、この言葉こそ、日蓮大聖人が現代の私達にのこされた御遺言と言えるのではないでしょうか。大聖人の遺命を果たすためにもなお一層強固な信仰を続けましょう。

ご入滅

「人身は受けがたし、人身は持ちがたし、艸の上の露。百二十まで持ちて名を腐して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。」

〜崇峻天皇御書〜

日蓮大聖人は弘安五(一二八二)年十月十三日、六十一年間のご生涯を閉じられました。十四日夜半より葬儀がしめやかに執り行われ、十五日零時過ぎ遺骸は荼毘に付されたといいます。

その後初七日忌が過ぎた二十一日、参集した信者たちは大聖人のご遺骨が入った宝瓶を携えて池上を出発、遺言に従って身延山へと向いました。一行は二十五日に到着、庵室近くにご遺骨は埋葬されました。こうして身延山は聖地となり、後に日蓮宗総本山「久遠寺」となったのでした。

守塔輪番制度

日蓮聖人は、その死に際して本弟子・六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)を定め後事を託し、また六老僧達に交代で自分の墓を守るように遺言されました。これに従い滅後百日の節目となる弘安六年の正月に組まれたのが守塔輪番の制、所謂「輪番制度」であります。身延山にご廟所が設けられ墓石が建立されました。守塔とは、この廟塔を守り墓石を清掃し、香を焚き、花を献じ、法華経お題目を唱えて大聖人の菩提を弔い、護持していく事を云います。その役を本弟子六老僧を始めとして主な弟子達十八名が交代して勤める事を輪番と言います。これは各自が布教先で法華経弘通に励みつつ、毎年所定の一ヶ月間、身延山で師大聖人の墓所に仕えることで門下の結束を固めるための具体的な方法でした。

しかし各地で布教活動をしながら、毎年一ヶ月とはいえ身延山常駐は大変な事で、三回忌の頃にはもっぱら地元の日興上人が常住し祖廟の給仕にあたるようになりました。こうして守塔輪番の制の維持は次第に難しくなり、早くも三回忌前には挫折せざるをえなくなってしまいました。

しかし事を憂えた日向上人が身延専任の守塔者となり制度を再興し、以後七百余年現在まで身延山では脈々と法灯が継承されています。今日も「守塔輪番制」にならい、全国の寺院住職が檀信徒を率いて参拝し、「祖廟輪番奉仕の制」が布かれ受け継がれています。