身延山久遠寺・七面山

私達日蓮宗信者の「魂の故郷」総本山身延山久遠寺と法華経信仰守護の七面天女が祀られている七面山の御紹介です。

法華経・お題目に帰依する私達は、日蓮大聖人の魂の棲む聖地へ是非お参りしたいものです。

歴史

日蓮大聖人が文永十一年(一二七四)甲斐国(山梨県)波木郷におられた檀越の南部実長公の支援を受け、同年五月十七日、身延に入山なされ、同年六月十七日、西谷の地に三間四面の草庵をかまえられました。この日を久遠寺の開創の日とされています。

弘安四年(一二八一)十月、新たに十間四面の大坊が建立され、身延山妙法華院久遠寺と称されました。

日蓮大聖人のご入滅後、日蓮大聖人のご遺言により、身延にお墓が建立されご遺骨が納められました。

その後、六老僧を中心に輪番制によって運営されていました。しかし、輪番制はくずれ、日向上人が二世となってからは、住職が定められるようになりました。

その後、十一世行学院日朝上人は、西谷の地から現在の地へ移転拡張されました。江戸時代になってからは、心性院日遠上人をはじめ歴代の住職(法主)の尽力により諸堂の建立整備がなされてきました。しかし、明治八年(一八七五)の大火により多くの堂宇を焼失してしまいました。

昭和五十七年(一九八二)日蓮大聖人七百遠忌の事業として、間口十七間半、奥行二十八間の大本堂が完成し、昭和六十年五月落慶法要が営まれ、総本山の根本殿堂にふさわしい大本堂が再建され現在に至っています。

次に身延山の山内の一部を御紹介致します。

日蓮大聖人の入山の頃から、弟子らがそれぞれに庵室をかまえ、有縁の者を養い、朝夕に日蓮大聖人に給仕して行道修学にいそしんだ場所を後に坊と呼ばれ、信者らの宿坊となりました。現在では、三十二の坊があります。

総門

日蓮大聖人が身延入山の第一歩をしるされた地に立つ門で二十八世日 上人が寛文五年(一六六五)に建立したものです。「開会関」の額は、三十六世日潮上人の書で、開会とは一切の人々は法華経の信仰によって仏となるとの意であるから、この門を入ることによって道が開けることを示しています。

菩提梯

佐渡の信者で仁蔵の発願により起工し、完成されたものです。高さ五八間、階段数二八七段、お題目になぞられ七区切りに分かれる急な階段で登りは苦しいが、それを通して仏の悟りに近づく意から菩提梯と呼ばれています。

御廟所

日蓮大聖人のご真骨が納められた墓所です。また、身延山の歴代の墓所で富木常忍の母、阿仏房日得上人、南部実長公の墓があります。

御草庵跡

日蓮大聖人が構えた草庵の跡で、当初は三間四面でありましたが、のち十間四面に改築されました。身延山久遠寺発祥の地であります。

七面山

久遠寺の約二十キロ西方にあり、標高一九八二メートルのお山です。頂上部に大崩崖があり、日蓮大聖人は「なないた(七面)がれのだけ」とよばれてます。一帯は早川町に属しますが、山上は身延町の飛び地で、久遠寺の所有です。身延山の守護神である七面天女がまつられています。

日蓮大聖人滅後、永仁五年(一二九七)九月十九日、弟子である日朗上人と、信者である南部実長によって開創され、この日をもって大祭を行っております。

徳川家康の側室で水戸光圀の祖母であるお万の方が女人禁制を解きました。

七面天女

建治三年十一月、日蓮大聖人五十六歳の時、草庵近くの大きな石(高座石)で説法されていました。

聴衆の中に、見なれぬ美しい少女が聴聞しています。そこで大聖人は、「そなたの姿を見てみな不思議に思っています。本体を見せてやりなさい。」と言われますと、「私は身延山の鬼門をおさえ、法華経を修行する人に心のやすらぎと満足を与える七面天女です。どうか水をすこし。」と乞いました。

かたわらにあった花瓶の水をそそがれると、たちまち龍の姿となり七面山の方に飛び去っていきました。