京都町衆文化の中での中心人物であり、法華経の熱心な信者であった本阿弥光悦を紹介致します。
平成二十一年十月十日より十一月二十三日まで、京都国立博物館にて『日蓮と法華の名宝』展─華ひらく京都町衆文化─が開催されました。日蓮大聖人の『立正安国論』の展示や、日蓮宗の宗宝はもとより、サブタイトルの「京都町衆文化」が示す通り、桃山時代〜江戸時代の美術作品も多数展示されました。
この時代の京都の芸術家、長谷川等伯・俵屋宗達・尾形光琳・尾形乾山等はみな法華経の信者だったのです。
その中でも本阿弥光悦は、芸術・信仰の両面において中心的な存在であったと言えるでしょう。
本阿弥の始祖本阿弥長春は、鎌倉松葉谷の日静上人に帰依し、日静上人が京都に本圀寺を建立する際に法名を授けられ、妙本と称するようになりました。
六代目本光ははじめ松田清信と名乗り、家業の刀剣の目利(鑑定)等で幕府に仕えていましたが、ある時、将軍から謀反の科をかけられ牢に捕らえられました。その時同じ牢内で出会つだのが、かの「鍋かむり」日親上人だったのです。日親上人は焼け鍋を被せられるなど厳しい拷問を受けましたが決して怯むことがなく、日親上人の強固な信仰を目の当たりにした清信は深い感銘を受けて日親上人に深く帰依したのです。清信は法華経の教え「娑婆即寂光土」から「光」の一字を授けられ「本光」の名を頂戴し、以来、本阿弥家では法華信仰の証として名前の一字に「光」の字がつけられるようになったそうです。
さて、本阿弥光悦は家業である刀剣の鑑定等の影響もあり、幼い時からあらゆる工芸に対する高い見識眼を鍛えぬかれていき、さらに、父が分家となり家業から自由になったことと、本阿弥家の富を背景として、和学の教養と独自の書風を身につけるなどして美術・工芸面に金字塔をうち立てることになるのでした。
光悦は徳川家康から京都の西北鷹峰に広大な土地を与えられ、光悦が鷹峰に住居を構えると、やがて尾形宗伯など親しい仲間や、塗師、金物師までが鷹峰に集まり、光悦はこれらの人々にそれぞれ土地を分け与え家を造り、仲間達とともに芸術活動に没頭しました。光悦はその才能を発揮し、芸術活動の総合プロデューサーとなり、やがてその流れが光琳や乾山を中心とする「琳派」を生み出していくことになるのです。
信仰の面では、光悦は、妙蓮寺の日源上人の求めに応じて『立正安国論』・『法華題目抄』・『如説修行抄』など多くの日蓮聖人の御遺文を書写したのをはじめ、池上本門寺の「本門寺」・中山法華経寺の「正中山」「妙法花寺」・京都本法寺の「本法寺」など多くの扁額を寄進しています。また、本法寺の庭園「巴の庭」は光悦が作庭したと伝えられています。
鷹峰には光悦寺をはじめ四つの寺院が創建され、光悦の子光瑳は、日蓮宗中興の祖として名高い寂照院日乾上人(身延山久遠寺二十一世)を招いて、鷹峰檀林(檀林とは僧侶のための学問・修行の場)を創立しました。
このように、信仰にも篤い光悦の宗教的・芸術的なつながりがあってこそ、それまでの千利休に代表される「ワビ・サビ」の「禅」的な文化から、「キレイサビ」と呼ばれる桃山文化「法華文化」がまさに華ひらいたのでしょう。