池上本門寺

お会式で有名な池上本門寺は、正式名を「長栄山本門寺」と称し、東京都大田区池上にあります日蓮宗大本山の一つで、日蓮大聖人御入滅(お亡くなりになられた)の霊地として広く知られております。いつ頃開かれたお寺かは諸説ありますが、日蓮大聖人は大檀越(信者)の一人で、池上宗仲公の邸宅(現在の大坊・本行寺)にて、弘安五年(一二八二年)お亡くなりになりました。その後お弟子の日朗上人に、法華経一部の文字数に相当する六万九三八四坪の土地を寄進して境内地としたとされた説が有力であります。

弘安五年九月、日蓮大聖人の持病が悪化し療養の為、身延山を出発され、常陸(現在の茨城県)の湯に向かう途中、檀越池上宗仲公の邸宅に立ち寄られました。しかし、宗仲公や弟子達の手厚い介抱もむなしく病状はさらに重くなり、翌十月十三日辰の刻(午前八時頃)多数の弟子・檀信徒に見守られながら、六十一年の法華経弘通の生涯を終えられました。翌十四日葬送の儀を厳修し、聖人の遺骸は荼毘に付されました。御遺骨は弟子による配分も終わり、十月十九日(日蓮大聖人の初七日忌)池上を出発、身延の地にて納骨の儀が執り行われました。

その後の本門寺は、日蓮大聖人入滅の霊場として次第に多くの末寺が加わり、徳川家やその他の有力武士の庇護のもと発展して参ります。徳川家康側室の養珠院お万の方や前田利家側室寿福院も諸堂建立に外護を加えました。中でも加藤清正公の帰依は厚く、四十間四面の祖師堂と「此経難持坂」と呼ばれる九十六段の石段を造営したと伝えられております。

しかし、第二次大戦の戦災でほとんどの建物が焼失しましたが、幸いにも日蓮大聖人の七回忌(一二八八年)に造られた国の重要文化財である祖師像(等身大を上回る日蓮大聖人座像)や日蓮大聖人自筆のお手紙等の古文書が多少持ち出され難を免れました。昭和二十三年以降復興事業が重ねられ現在に至っております。


「大坊本行寺」

正式名を「長崇山本行寺」といい、通称「大坊」と称されています。日蓮大聖人御入滅の地であり本門寺の近くにあるお寺です。

弘安六年(一二八三年)の創立で、日蓮大聖人の檀越である「池上右衛門大夫宗仲」が邸宅地内に法華堂を建立し、日蓮大聖人が身延より到着され御入滅後、日朗上人弟子の日澄上人にこの地を寄進し、法華堂を改め本行寺が開創され、大坊と呼ばれております。数度の火災に見舞われましたが、「御臨終の間」と呼ばれる建物や「御寄掛の柱」といった史跡があり、昭和十一年に宗祖入滅の地として都の旧跡に指定されております。

また、このお寺に「御会式桜」と言われる伝承があり、日蓮大聖人が御入滅なされた際、庭にあった桜の花が一斉に開いたと言い伝えられております。以来全国各地で行われているお会式で、桜の花の造花が用いられている根源となっております。