光勝寺は小城町の中心より北へ約1キロの所に位置します。九州で唯一の本山であり、鍋かむり日親上人が布教をされたことで有名なお寺です。日蓮宗の信徒として一度はお参りされた方も多いでしょうし、お参りされたことが無くてもほとんどの方がご存知のことと思います。
お寺の創建は古く、文保元年(1317)下総の国(今の千葉県)の地頭であった千葉胤貞公が、幕府の代官として九州探題の職を任命された時、中山法華経寺の三代目の住職であった日祐上人に、この大役が無事に果たせるように、祈願をお願いされましたところ、仏天のご加護により、何事もなく過ぎました。その功績により胤貞公は幕府より肥前の国を賜りました。胤貞公は日祐上人に感謝し、現在地にお寺を建立し、上人を開山(初代の住職)としました。その後、千葉家の篤い信仰によりお寺は守られ、十三代までは法華経寺の住職が光勝寺の住職を兼ねておりました。
十四代目になって初めて専任の住職を置くことになり、法華経寺からおいでになったのが日親上人です。日親上人は大変激しい布教を展開され、多くの迫害を受けられましたが、屈すること無く、松尾山周辺はもとより九州各地で日蓮大聖人の教えを弘められました。
慶長年中、十八代目の日乗上人の時、鍋島直茂公が、当時のお堂が非常に古くなり、いたんだのを嘆かれ、総欅造り十間四面で、極彩色のお堂を寄進されたのが現在の本堂です。
十九代目の日億上人は極めて高徳の方でしたので、後水尾天皇が深く帰依され、「護国光勝寺」なる勅額を拝領すると共に勅願寺の指定も受けました。
本堂正面におまつりされております日蓮大聖人のお像は鎌倉末期に造られ九州では最初のお像で、開運栄昌を司る除災延命の「満願高祖大菩薩」として、多くの人々の信仰を集めています。又、右側のご宮殿内にも祖師像がおまつりされていますが、この祖師像は昔、千葉城におまつりされており、領内に異変があるとお経の声が聞こえてきてその都度、千葉胤貞公が難を免れられたことから「読経のお祖師さま」として知られています。
本堂左手の、日親上人がおまつりされていますお堂は、鍋島の一族、石井氏に依って寄進されたもので、すべて楠で造られており、建築上貴重なお堂です。
その他にも、鬼子母神堂、清正公堂など多くのお堂があり、お参りの方が絶えることは有りません。
県内日蓮宗の寺院の中にあってまず最初にお参りをして頂きたいお寺です。
日蓮大聖人がお書きになられた大曼荼羅御本尊が奉安されている事で皆様ご存じのお寺です。南には広々とした田園風景が広がり北には天山々系の山が望める三日月町深川の地にあります。
勝妙寺の開山日厳上人は、千葉県中山法華経寺の二代目の住職であった日高上人の弟子でしたが、日高上人は、日厳上人に西国の布教を命じました。そこで、日厳上人は正和二年(一三一三)、千葉胤貞公の子、胤泰公が鎮西下向の折、同行された小城の地で布教をされました。最初、勝妙寺は松尾山光勝寺の西谷に有りましたが、四代目日妙上人の時に三日月町藤織の地に胤泰公より境内地並びに田畑を寄進され移転しました。その後、元亀元年に豊後の乱が起こり、今山合戦の時に悉く焼失し、そののち現在の地に移転しました。
勝妙寺の住職は、歴代にわたって宮中に仕え十五代目の日尖上人の時、時の天皇より勅額が下賜されました。
現在の本堂は、昭和四年、二十四代目の住職でありました日雷上人によって建てられたお堂です。間口九間、奥行き十間の大変大きなお堂で、お堂の入り口に「勅許勝妙寺」と書かれた勅額が掲げられております。
勝妙寺に奉安されております、日蓮大聖人がお書きになった大曼荼羅御本尊は弘安元年七月、日蓮大聖人が御年五十七歳の時、日賢と云う人に授与されたものです。日賢と云う人は俗名を依智三郎直重と申しまして、日蓮大聖人に刃を向けた人です。
文永八年(一二七一)九月十二日、龍口法難に逢われ首を打たれようとされました。このときの首打ち役人が依智三郎直重です。日蓮大聖人は諸天善神のご加護を得て難を逃れましたが、佐渡へ島流しの身となられました。
幕府より赦免状が届き、文永十二年三月二十六日鎌倉へお帰りになりましたが、同年五月十七日、山深い波木井ノ郷身延山へと御入山されました。
龍口法難より八年後の弘安元年七月のある日、身延の御草庵を訪れた旅姿の老武士がありました。この人こそ、依智三郎直重でした。役目とは申しながら日蓮大聖人に刃を向けた事を深く懺悔し法華経の信者とならん事を誓い、又、大聖人のお弟子にと熱望致しました。日蓮大聖人は非常にお喜びになり日賢という名前を授けられました。直重はその場で剃髪し出家を致しました。
この時に授与された御本尊が勝妙寺に奉安されております御本尊で、日厳上人が鎮西下向の際、この御本尊を師範日高上人より託されたと伝えられていて、逆縁の曼荼羅、または剃髪の曼荼羅と呼んでおります。
法蓮寺は唐津市街地に位置し、鍋かむり日親上人の木像が安置されている事で有名なお寺です。
日親上人が九州の総導師職として松尾山光勝寺に住職されていた時、松浦郡石志村(現、唐津市山本)に住した真言の修験僧八幡坊法印を訪ね、法論を戦わせた結果、八幡坊は屈して弟子となり名を善林院日悟と改め、寺名を法蓮寺と名付けられました。
八幡坊は肥前波多家六代目鬼子岳城主波多下野守積世の子で、真言の修験僧として有名な方でした。日悟上人には法弟子が無く百数十年間の記録は不明である。二世教行院日義上人の時大檀那波多家十四代三河守親は豊臣秀吉の憤りにふれ、家は断絶されて同時に寺も没収されました。以後、五世了法院日正上人まで現在地近くに茅庵を結び細々と存続しておりました第三代唐津城主松平和泉守・北堂婦人が日正上人に帰依され現在の土地と諸堂を寄進されました。本堂内陣の宝塔二仏諸菩薩像はその当時の像です。
日親上人が七十八才の時作られた像で、弟子の博多法性寺初祖日祇上人に命じて作られました。御像胎内には、
「文明十六甲辰年、應厳命奉作、御尊像、日祇」
と日親上人自らの命により作られた事が記されてあります。
長生の懇請に依り東郷元師の特に揮毫せられたる高城山山額を今般當山に奉納致す也
大正十五年七月
子爵小笠原長生
現在の本堂は昭和六年に二十四世日解上人の時建立された間口九間奥行十間の大きなお堂で、正面には東郷平八郎元師の筆になる「高城山」の山額が掲げられています。また仏舎利殿、位牌堂等の諸堂が整備されています。
日蓮宗の大信者として知られた加藤清正公の像で、清正公熊本城主の時、慶長七年六月一日、四十二才の厄晴を迎えるにあたり自像三体を作り、自ら点眼して南関の城代加藤清兵衛正俊に与えた像で明治十五年より除厄清正公として当山に安置されています。
観照院は佐賀市の中心部に位置し、県内でも有数の歴史あるお寺です。
今から約五八〇年ほど前の応永年間に荒行で有名な千葉県の中山法華経寺の命により建立され、開基は日伝といわれています。これは県内では本山松尾山光勝寺につぐ歴史があります。
創建当時は十七ケ寺もの末寺を持ち、鍋島藩の祈祷所ともなっておりました。
創建から現在に至るまでに伽藍は数回建て替えられています。現在のものは、文永七年(一八一〇)に鍋島藩ご用達の富裕な商人であった池田もく兵衛が、自力で建てたものです。この年号は、本堂改築時に屋根裏から発見された文書に基づくものであり、この時には鍋島藩祖の日峰公をはじめ、十二代に渡る鍋島藩主のお位牌も発見されています。
佐賀市内の高木町にあって、佐賀城の北東、旧長崎街道沿いに位置しております。ここで特異なのは、観照院をはさんで東西に七ケ寺もの寺院が連続して建っているという事実です。この中には他宗になりますが、願正寺などの名刹もあります。
このように沢山の寺院が集中している理由としては、現在地がかつては長崎街道沿いとして大変繁栄した場所だったという事もあるでしょう。
現在の本堂は昨年屋根の改修が終了し、柱や梁など、目に見えない所の修理もなされ、建立時の威容を取り戻した様相を示しております。今後とも永きに渡り、お題目弘通の道場として発展していく事でしょう。
佐賀平野の広がる牛津町の小高い山すそに位置し、肥前山口駅より東へ約二キロの所にあります。
妙蓮寺は、今から約四七〇年ほど前の大永年間に、開山日念上人によって建立されました。
又、小城の深川の勝妙寺の末寺であり親師法縁と言われています。
創建から現在に至るまでに伽藍は数回建て替えられています。
現在のものは、明治四十年(一九〇七)に建立されたものであるが、昭和二四年(一九四九)の台風豪雨による裏山の崖くずれで倒壊したため、翌年二五年に復興再建されました。
本尊観請様式は、一塔両尊四士、合掌印です。また、御祖像、文殊菩薩、普賢菩薩の裏には「右三身者新佛造立也、貞享五暦中秋中旬、京寺町下御霊前、大佛師左京作之」としるされており、これらの像は貞享五年(一六八八)に造立されたものです。
小城市三日月町久米一一九五
修善院は九州唯一の本山、松尾山光勝寺のお膝元三日月町に在り、平井の鬼子母神様のお寺で有名です。
延文四(一三五九)年の創立、開山は智観房日貞上人、応安二(一三六九)年九月十三日寂。日貞上人は下総、千葉大隅守平胤貞の子で、幼少より中山法華経寺第二世日高上人の弟子となり、行学の功を積み、法兄の法華経寺第三世浄行院日祐上人の委嘱を受けて松尾山光勝寺を開創され、九州総導師職に就き、盛んに布教活動をされて延文年間に松尾西谷に本福寺・修善院を開創され、光勝寺末寺とされた。
日貞上人光勝寺第二世となるも、晩年下総中山に還って法宣院を開創し、実兄である日胤上人を開山に迎え、日貞上人は第二世となられた。
法宣院第五世久遠成院日親上人が松尾山光勝寺第十五世となられ、中興の祖となられた。
寛永三(一六二六)年修善院第十世日継上人の代に、佐賀藩主鍋島直茂公の御内室、陽泰院様の帰依を受けて、現在地平井に境内地五反二十歩と二十五石の寺領を賜り、移転再興された。
第三十二世日秀上人代より堂宇の改築を行い、昭和五十四年第三十四世大平智塋上人代に現在の立派な本堂、納骨堂、鬼子母神堂等が新築されて寺観一新となる。又昭和三十四年大平智塋上人終戦後の世相混沌の時期、三つ子の魂百まで…と乳幼児の時より宗教的雰囲気の中での健全な身心の育成を願って保育園を設立し今日に至る。
浄行院日祐上人のお手紙、慶長十八(一六一三)年作の釈尊像、身延山久遠寺第七十三世、新居日薩上人の御本尊等有り。
現在修善院第三十八世住職として大平純士上人が宝燈継承なされています。
園児を募集しております。
多久市東多久町
本覚寺は小城より多久に入ってすぐ、古賀山の地に国道二〇三号線から近い所に位置しています。
応永二十三(一四一六)年八月開基となっています。当時皆木村と云っていた所の豪族、吉谷周防の守と云う人が熱心な日蓮宗の信者で、四間四面のお堂を建て三日月の深川勝妙寺にお願いして日延上人を申し受け初めて吉谷山本覚寺となりました。この時応永二十四(一四一七)年十一月十一日でした。
明治二十五年(一八九二)年四月二十八日、当山中興の日清上人(現住職の曾祖父)の代の時、四百八十六年の間に荒廃してしまっていたのを皆木より現在の地へ移転新築開堂され、入仏の供養が盛大に行われました。
因みに皆木本覚寺の旧蹟には、現在でも観世音菩薩のお堂、題目塔、七面大明神の祠、経塚、歴代の住職の墓その他多数の石造物が祭ってあります。
巾六尺長さ九尺の大幅な釈尊涅磐の図があります。
元禄五壬申天十一月松尾山廿四世日良上人によって開眼常坐された日蓮聖人像があり三百年以上を経過しています。
鬼子母神像も古くから祀られていて市内では有名です。
立教開宗七五〇年(平成十四年)の聖年を記念し、日蓮聖人銅像護持教会前主管故中村日讃上人が本覚寺第二十九世師父吉永日徳上人報恩の為、当山本堂新築の浄業を発願せられました。そして上人の功に謝し当山第三十一世に加歴し永くその徳を讃えられ、平成八年六月に落成されました。
先々代日徳上人が昭和二年備中国高松稲荷山より勧請されたものです。昭和五十五年四月に改築。
佐賀市材木一-五-十二
本経寺は片田江の交差点より国道三十四号線を鳥栖方面に向かい、バス停材木橋下車、北へ五十メートルの静かな住宅地に在ります。
寛永二(一六二五)年の創立です。開山は寿徳院日清上人で正福寺(佐賀市大財町)の開山でもあります。観照院(佐賀市高木町)の末寺として栄えてきましたが、昭和六年の火災により焼失。二十六世恵信院日仁上人が本堂、庫裡、山門薬師堂等の全境内建物の新築、墓地の整備等を達成されました。そして昭和四十八年二十八世一雨院日彰上人による二百坪の拡張、昭和五十四年薬師堂の改築等を経て現在に至っています。
第十九代日蓮宗管長、第七十九世身延山久遠寺法主、静岡県由緒寺院の貞松山蓮永寺第二十五世を勤められた本信院日慈上人直筆のものです。
お堂正面には、医王薬師如来が祀られ、その両脇には日天子(太陽を神格化したもの)、月天子(月を神格化したもの)の眷属を安置してあります。この勧請系体は日蓮宗では非常にめずらしく、正面の医王薬師如来は、五十年に一度ご開帳されます。
本堂前に樹齢百年を超えるざくろの木があります。古来より子育ての神様、鬼子母神様に祈願をなさる方々が、ざくろを捧げてこられました。
嬉野市嬉野町吉田甲二六五四
本覚寺は肥前鹿島駅よりバス吉田経由嬉野温泉行きで、バス停車吉田下車、徒歩約二分の静かな山麓に位置しています。
永正五年(一五〇八)、吉田の吉田太郎左衛門尉蔵人が、日蓮宗信徒と協議して、佐賀の本行寺より上人を招き数日間妙法の講説を聞きました。
その後現在地に一草庵を建て、「三宝諸天善神」を安置し、天下泰平・信徒の幸福を願い、先祖の菩提を弔いました。
創建より本行寺住職が兼務して四代続きましたが、天正五年(一五七七)吉田家七代目左衛門太夫の代に、本行寺より円蔵院日良上人を迎え専任住職となりました。そのため開山を円蔵院日良上人、開基を吉田太良左衛門尉蔵人としています。
宝暦年間(一七五一〜一七六三)に現在の庫裡は完成されました。そして安永八年(一七七九)本堂を建立し、翌九年(一七八〇)御佛檀位牌所が落成、また山門もそのころ落成しました。
昭和五十三年(一九七八)に当時の日蓮宗管長金子日威猊下(池上本門寺貫首)を迎え日蓮聖人七百遠忌の法要を厳修し、合せて本堂の改修(屋根、瓦ふき)、駐車場を新設し寺観を一新しました。
現在立教開宗七五〇〔平成十四年(二〇〇二)〕、そして創建五百年〔平成十九年(二〇〇七)〕に向けて庫裡の改築等を計画中であります。
身延山二十世(一如院日重上人)三十三世(遠沾院日亨上人)の大曼荼羅、七十二世新井日薩上人(日蓮宗初代管長)の一遍首題が安置されています。特に日重上人は戦国時代に江戸時代に至る日蓮宗の基をつくり、宗門を救ったとして中興の祖とされています。
小城市三日月町樋口六三七
大野義敬住職
勝嚴寺は三日月町五条バス停留所より徒歩で約五分の所、遠くに天山を望む田園地帯に位置しています。現在の地名は江利と呼ばれていますが、昔は瀬道佐(せどうさ)という別名も有ったようですが、この地名は勝嚴寺の山号仙道山(せんどうさん)から来ていると言われております。
大永元年(一五二一)日能上人に依って開山されました。以来約五〇〇年に渡り法華経の道場として譲り継がれています。現在の本堂は昭和十二年に先代・三十六世龍宣院日弘上人の代に改築されました。又、善神堂並びに庫裡は平成六年十一月、住職大野義敬上人の発願により改築が行われ寺観を一新しました。本堂には仏祖三宝が勧請され、その右手には立派なお厨子の中に日蓮大聖人の御真筆と伝えられる大曼荼羅御本尊が格護され、又左手には身丈三尺程の鬼子母神が勧請されております。本堂手前右手には新しく改築された善神堂が有り、その中には最上位経王大善神、三十番神、清正公大神祇並びに毘沙門天が勧請され人々の信仰を集めています。
三十五世大龍院日祷上人の代、上人の信者より、自宅の蔵の中に、何か尊いものが有るとの霊示を受け、蔵の中を調べてみると大曼荼羅御本尊が見つかりましたので、個人の家でお祀りをするには、もったいないので、お寺でお祀りをして頂きたいとの申し出がありました。そこで、日祷上人は早速、信者の家を訪れ、大曼荼羅御本尊を拝観すると「弘安元年四月二十一日優婆塞日専に授与す」としたためて有りました。これを見た日祷上人は、日蓮大聖人が御自ら書かれた御本尊に間違いないと思われ、勝嚴寺に持ち帰り大切に格護されました。明治三十三年に二代目の立正大学の学長でありました、小林日薫上人が佐賀に下向の砌、この大曼荼羅を拝観され、日蓮大聖人の御真筆に間違いないとのお墨付きを与えられました。この鑑定書は今でも大曼荼羅と共に大切に保管されております。これ以来「勝嚴寺のごしちさん」として広く檀信徒の信仰を集めるようになり、この頃から十一月十二日の鎮西本山松尾山光勝寺の御会式御逮夜法要には、勝嚴寺で御会式法要が行われた後、近郊の檀家の方が大曼荼羅を大勢で格護した御厨子を担いで登山し、本堂御宝前で、お参りされた檀信徒の読経唱題の中に御開帳が行われます。
多久市東多久町仁位所
宮本智昭住職
妙海寺は多久市来多久町JR唐津線、東多久駅より北へ一km、仁位所の小高い丘の上に在ります。
開創以来五百五十年
嘉吉二年(一四四二)の創立で、既に五百五十年に及んでいます。
妙海寺は山号を浦寺山と云い、元々は天台宗・南多久町桐野・妙覚寺の住持隠棲の寺として鎌倉期に建立されました。
室町期に日蓮宗との法論に敗れ改宗し以来日蓮宗寺院となり現在に至っています。
開山は本山松尾山光勝寺第六世、日伝上人で別府多久家等の外護を受けながら寺門の興隆をみました。明治二十六年の台風で本堂が倒壊しましたが翌二十七年に三十七世日久上人により再建されました。
昭和三年、第四十一世日静上人代に本堂鬼子母尊神堂を改築し、又上人自ら行願をたて正中山大荒行堂に入行して現在の妙海寺の礎を築かれました。
先代第四十三世、日淳上人代に老柄化した本堂・庫裏の建て替え事業に着工し、平成四年本堂内陣工事竣工。途中日淳上人の突然の遷化にあいましたが、現住職、智昭上人が受け継ぎ庫裏新築・境内地整備事業を竣工させ、平成六年落慶式を行い現在に至っています。
仏堂や社殿の軒下につるしてあり、参詣者は布で編んだ網を振り動かして打ち鳴らす物で金鼓とも云います。妙海寺の鰐口は両耳に唐草模様が施され、江戸元禄期に蔵富氏より寄進されたとの銘があり、多久市の文化財に指定されています。
佐賀市本庄町鹿ノ子一二〇六-三
福山智彦住職
常照院は、佐賀市の南西部に位置し、佐賀駅より本庄東与賀線のバスに乗り、鹿子宮前にて下車し、徒歩十分の所にあります。
当山は、九州探題千葉胤継の副将であった、石井越後守忠国により永享元年(一四二九)肥後高顕の京都本国寺派妙法寺の本立院日字大徳を開祖として現在地佐賀市本庄町鹿ノ子に妙光山本善寺として建立された。
元亀元年(一五七〇)より一時、村の南方へ移転したが天正八年(一五八〇)初代鍋島藩主鍋島直茂室陽泰院の父石井兵部少輔常廷の逝去に際し現在地に復した。
元和元年二代藩主勝茂が鍋島家の祈願所として、六十三石余りの知行地を与えると共に、義父常廷の法名常照院殿常悦日教大神儀の法名にちなみ本善寺を常照院と改称することと命じ、その後、妙光山常照院と号した。
更に寛永元年には祖母、陽泰院の供養料として三石余りの知行地が藩主光茂より下賜されている。
寛文七年諸堂を焼失したと伝えられている。
明治四年(一八七一)二月火災にあい全堂焼失した。
それより三間六間の仮本堂であったが、明治四十五年に至って六間六間半の本堂と三間六間の庫裡が新築されました。
更に昭和八年に庫裡の改築、鬼子母神堂の新築がなされた。
本堂屋根の老朽化が著しかったので、平成に入り本堂、鬼子母神堂の屋根の修理及び庫裡の改築が、平成七年度よりなされ平成十二年九月に至って工事が完成し、今日の姿となった。
常照院は幾度の火災に遇い数多くの寺宝は焼失してしまった。
その中で、如水初祖の作、宗相尊像精薩諸師の本尊などを蔵している。
杵島郡江北町八丁三一一三
前田智憲住職
肥前山口駅より祐徳バス鹿島方面行きに乗り八丁バス停にて下車して東南へ約三百メートル、広々とした田園と南には六角川を望める所にあります。
妙善寺は、明治二十年(一八八八年)創立、開山は智琢院日輝上人で、開基は壇越の淵上市次郎と言う方により現在地に建立されました。
当山の南には六角川が流れており、創立年代までは橋が無く、寺参り等に大変不便なこの地に、明治二十年本堂と兼用の庫裡を建設し、教会所とされました。
明治二十六年(一八九四年)には、日蓮大聖人に「上洛し、帝都弘教をせよ」との遺命を受け、見事に果たされた龍華樹院日像上人が、元亨元年(一三二一年)十一月に後醍醐天皇より皇居の御溝の傍今小路に寺地を頂いて建設された大本山妙顕寺の末寺となり、奈良県より寺号の妙善寺を移転、山号を功徳山と称し、明治三十三年(一九〇一年)に本堂を建立されました。
幾度となく風水害に遭い建物の老朽も激しく、立教開宗七五〇年記念事業に於いて本堂及び庫裡を同時に新築。
小城市三日月町道辺八〇九番地
松島正朋住職
南には広々とした田園風景が広がり北には天山々系の山が望める場所にあります。
長栄寺は、今から約三百年ほど前の元禄元年(一六八八)開山南照院体相律師日楊大徳によって建立されました。俗に言う隠居寺で、開山を除いて以後、歴代の先師の資料はとぼしく詳しくは残っていません。
明治三十八年(一九〇五)智海院日栄上人の代に間口四間、奥行四間半の本堂が建立されました。本尊勧請様式は一塔両尊合唱印、御尊像は、嘉永四年(一八五二)に作製された説法像です。
昭和二年(一九二七)第二十世海宝院日照上人の代に五坪の鬼子母神堂を建立、向かって左に三十番神像、右には千手観音像、正面に鬼子母神像がおまつりしてあります。又、山門、参道の整備をされました。
その後本堂、庫裏共に幾度と改修、改築されましたが、現在の住職手嶋正奠上人が、昭和二十二年(一九四七)三月十八日二十八歳で第二十三世として長栄寺に入寺されたとき、藁葺屋根で室内は暗く雨漏りも多い荒れ寺で、当初はたいへん苦労されたそうです。
昭和三十五年、二月、庫裏の増築。昭和三十八年、長栄寺開山以来歴代上人の墓を建立。
昭和四十三年、日蓮大聖人生誕七五〇年の記念事業として本堂、庫裏の屋根を瓦に。
昭和四十九年、尊神堂の改築。その後も幾多の増改築を加え現在の姿となりました。
第二世蓮高院日珠上人、第三世高修院日峯上人は、たいへん御経の達者な人物でした。
法華経は、全八巻二十八品(章)からなりますが、文字数で言えば六万九千三百八十四文字にもなります。これをすべて読誦することを一部経読誦と言います。日珠上人、日峯上人が一部経を一万回づつ、即ち六億九千八百三十四万文字と言う莫大な数を読誦された記念に建立された宝塔です。
第七世日廣上人の代より釈尊大涅槃像掛軸一幅所蔵。箱の表には、湛然山寿因坊裏には涅槃像文政十二年(一八二九)丑二月日廣と記してあります。
現在、二月十五日の釈尊涅槃会の時には正面にお飾りしてお題目講が行われています。
多久市北多久町大字小侍一八一八
木下海湧住職
山々に囲まれた景観の中、豊かな自然に囲まれた所にあります。
湧泉寺は、明治十九年(一八八六)十一月二十四日の創立で、開山は竜海院日宝上人です。
この地には天然の名滝があり、慶長(一五九六〜)年間に、唐津領主小笠原氏が湧泉の滝と名づけ、観世音菩薩等を安置されました。
明治初年には朝日天王を祭祀して、信徒一同が法華道場朝日教会を開き、第二世順達院日正上人、弟子の第三世順正院日誠上人の代に益々盛んになりました。
檀信徒のより処である本堂も、昭和九年(一九三四)の暴風水害以来、数々の災害を蒙り大破腐朽したため、第四世三昧院日恒上人の代に檀信徒が一丸となり、新しく建立されました。
元来、本堂は滝の側にありましたが、崖崩れ、水害の被害を受けやすく、実際に昔の本堂は崖崩れで大破し、今の位置に移動したそうです。
現在の場所に移動してからも、住職不在の時期が長かったせいか、現住職が入山した時には、絵に書いた様な荒れ寺で、雨漏りもひどく歩けば畳もぶかぶかで、とにかく人が住める状態ではなかったそうです。
宗祖七百恩忌の時に改築、拡張して現在の姿になりました。
この辺りの地名を、通称「蜂の巣」と呼んでいました。
「蜂の巣の云われ」
昔、この地に蜂の巣の様にたくさんの穴があいた岩があり、その穴一つ一つに観音様をお祭りしてあったことから、ここを蜂の巣と呼ぶそうです。
このお寺は通称で、遊仙の滝、蜂の巣滝などと言われています。また、蜂の巣教会と言われていた時期もあるそうです。
佐賀市鍋島二-十九-一
蓮成寺は佐賀大学医学部のすぐ南に位置する場所にあります。
(一)当山の縁起
蓮成寺は、永禄三年(一五六〇年)肥前国小城郡織島ヶ里杉町の領主杉町備中守信房公により建立され、開山日釋上人をお迎えして山号を福岡山と名付けられました。
杉町信房公は、鍋島藩祖直茂公(一五三七〜一六一八)の頃に活躍した有力武士で、直茂公の公室「陽参院殿芳林妙春大姉」の妹に当たる「幸祐妙院殿日喜大姉」(位牌には「幸祐妙院日喜大姉」とある)を内室に迎えられました。
鍋島藩二代の鍋島光茂公(一六三三頃〜一七〇〇)は、信房公と内室の「幸祐院」の両名を供養するため、「幸祐院」の第百回忌にあたるのを記念して、建宝三年(一六七五)に蓮成寺の堂宇を改築。それを証明するものとして、本堂正面に鍋島家の紋章が取り付けられています。
(二)当山の現状
今より十数年前は、周辺の道路も狭く、境内地南側一帯は大きな堀が東西に配備され、周囲を竹薮や田園に囲まれ、交通も大変不便な場所でした。その様な環境の中にあって、たまたま佐賀医科大学が誘致、開学されて以来学園都市建設の構想がもち上がり、鍋島土地区画整理事業(昭和五十六年〜平成二年頃)が推進されました。これによって周辺道路も整備されて整然とした街路が出現し、アパート、マンション、個人住宅も増えて、その情景も一新されました。
開創以来、同所に本堂・庫裡・三十番神堂があり、昭和五十三年には本堂・廊下の改築、昭和五十五年には庫裡の改築、境内地・墓地の整備などをへて現在の姿になりました。
(清正公)
当山の参道より本堂へ向かい右の奥に「清正大神祇」がお祭りしてあり、塔の右側面には、文政五年午星(一八二二)二月吉良日と記してあります。
当時の村人は清正公信仰の念が強く、本来ならば、はるばる熊本に行って参拝すべきところ、道中が大変であったため、当地にお祭りして拝んでいたと考えられます。
(万部塔)
清正公塔の左隣に二本の大きな塔があります。この塔が建立された時期は、十八世紀初めより中頃にかけて、江戸時代八代将軍徳川吉宗の頃です。
西国に大飢饉がおこり、物価も上がって各地に打ちこわしがおき、社会不安の増大した時期に、「一天泰平 国土安穏」を祈願して、当山第十五世日達上人が法華経一万部讀誦、松尾山第二十七世日慧上人が二万部を讀誦された記念の塔です。
江藤新平が、明治七年(一八七四)の佐賀の役後、政府軍に捕らえられ佐賀城内で処刑された後、千人塚(現在の森林公園内)に首を晒された三日後の四月十六日、親友相良宗蔵が、江藤新平の遺体を貰いさげを受け、江藤家の菩提寺である蓮成寺に埋葬されました。当時の蓮成寺は交通が不便であったため、近親者、縁故者等の参拝上の便宜から、江藤の死後七回忌の翌年にあたる明治十四年四月、遺骨は蓮成寺から佐賀市西田代の本行寺に改葬されました。
現在は江藤家先祖の墓碑十一基、新平の孫にあたる江藤冬雄夫妻の墓碑がお祭りされています。
杵島郡江北町大字惣領分一九九三
野口雅孝住職
肥前山口駅より祐徳バス佐賀方面行きに乗り、佐留志バス停にて下車して北の山手へ徒歩五分、南に市街と田園を臨む見晴らしの良い高台にあります。
福正寺は延徳二(一四九〇)年の創立第一世の涌竜院日苔上人以来連綿と五百余年の歴史を築いてきました。特に第二十七世の智琢院日輝上人は八丁に妙善寺を創立・開山されました。現在の本堂、庫裡は昭和五十六年に第三十三世の寿学院日完上人の代に宗祖日蓮大聖人第七百遠忌記念事業として新築され、また前総代谷口勝二氏の発願により参道が整備されました。四十件余りの檀家数でこの大事業が成し遂げられ、現在も力を合わせて境内整備に努められています。
また現住職は自坊での法務の傍ら、福岡市東公園にある日蓮聖人銅像護持教会に勤務されております。
境内地に「アワビの宝塔」があります。この宝塔は第三十二世龍学院日透上人が勧請された宝塔で、庭仕事をされていた住職の奥様が土中よりお題目の文字が自然の模様として浮かび上がったアワビの殼を発見しました。
この「アワビ」のいわれは諸説ありますが、一つには、日蓮大聖人が佐渡流罪の折り高波に襲われ船上より竿で波にお題目を書いて難を逃れましたが、この経力が「アワビ」に映ったという説があります。
また一説には千葉氏が九州下向の際海難に遣いましたが、一心にお題目を唱えて難を逃れ無事に到着しました、船を調べると「アワビ」が穴のあいた部分を塞ぎ守ってくれていました、一心に唱えたお題目が「アワビ」に映ったといわれています。
このような説からこのお題目が映った「アワビ」は「難を逃れる」と言うご利益があると伝えられ、境内より出土した「アワビ」を勧請されたようです。
小城市三日月町立石三三六
田中英康住職
光旭寺は三日月町の南部に位置し、遠くに天山を望む場所にあります。
光旭寺は応永五年(一三九八)三月創立で、開山は三日月町勝妙寺第六世日光上人、開基は檀越千葉大隅守胤継公です。
北条幕府が蒙古襲来に対し防戦態勢が急がれた文永八年(一二七一)九月、千葉頼胤は幕府の命を受けて九州に下向し、所領の肥前国小城に赴き博多で警護番役に就きましたが、文永十一年十月の蒙古との戦に傷を負い、翌建治元年(一二七五)八月十三日に小城の地で没しました。
頼胤を失った千葉氏は、弟に千葉の本家を継がせ、世嗣宗胤自ら肥前国小城に赴いて蒙古襲来の警護に当たる事となったのです。この宗胤の子が胤貞で、中山法華経寺を中心とする日蓮宗の外護者として有名です。
宗胤の子胤貞は、法華経寺の第二代貫首日高上人に深く帰依しました。日高上人とは、日蓮聖人面授の弟子で、師の日蓮聖人が身延に隠栖された時、側近に待って修学・修行にいそしんだ、いわばその修行時代を日蓮聖人のかたわらで送った僧で、後に宗門の中心として教団を統率し、教団における最初の基礎造りという重大な役割を果した高僧です。
胤貞は日高上人に法華経寺の俗別頭(寺院の運営面における責任者で、貫首と並び称される立場にある俗人のこと)として迎えられ、貫首と並ぶ権限をもつと共に、その後楯によって中山法華経寺を中心に教団は急速に発展していきます。千葉胤貞は日蓮宗に多大な影響と貢献を残しました。また、小城松尾山光勝寺の開基檀越でもあります。
日高上人が入滅した後、中山法華経寺の教団からは日蓮聖人面授の弟子が消えてしまうことになる。このような重要な局面の転換にあたって胤貞の養子日祐上人が、第三代目の貫首職となりました。胤貞の後を継いだのは胤継で、父に劣らず日蓮宗の信仰に熱心で、貫首の日祐上人に対して田畑を寄進したのを始め、多方面にわたってその活躍を支えた人物で、光旭寺の開基檀越です。
現在の光旭寺は立教開宗七五〇慶讃事業として、本堂、鬼子母神堂の瓦替え、水行堂の改築工事を成し今の姿となっています。
中山法華経寺代三世、松尾山光勝寺開山 浄行院日祐上人曼茶羅本尊一幅を蔵しています。
佐賀市兵庫町大字渕一八九七
眞木辨泱住職
佐賀駅より市営バス徳永・久保泉方面行に乗車し、「妙常寺前」バス停で下車、徒歩三分の所にあります。
護国大本尊
元寇の役の時、宗祖日蓮大聖人が身延山中で記した大日本衛護大曼荼羅で、両尊(釈迦如来・多宝如来)四士(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)・文殊普賢四天王を記し、二明(愛染明王・不動明王)を大聖人が梵字で表示された大曼荼羅の様式です。
本照寺との合併
現在は妙常寺に合併されていますが、その隣に元中年間(一三八〇年頃)相良肥後守の発願によって建立された渕川山本照寺がありました。開基は肥後守の嫡男日乗上人であります。渕川城主空閑参河守も檀家であったのです。内室日恩大姉(龍造寺家兼の息女で直茂の養女・天文五年逝去)の墓もあり、位牌も安置されています。このような関係で御茶湯田の一反田畝の外に、田地一町三反七畝の寺領も得ていました。その後、隆信の代に当寺の住持十四世日秀上人へ祈祷を命じられ、また直茂夫婦より関ヶ原合戦の戦勝祈念、勝茂より大坂の陣の戦勝祈祷の命があって寺領田地四町歩を得ています。その当時、龍造寺家、鍋島家の信仰が厚かったのですが次第に寺運衰えて隣寺妙常寺に合併されました。
渕川山妙常寺は、御柏原天皇の永正年中(一五一〇年頃)小城地方の豪族千葉胤繁が建立した寺で寺領二町を有し、龍造寺家・鍋島家の尊信も厚かったのです。約百有余年程前、寺家究調の際に、寺領没収の災難に会い、その当時住持でありました順法院上人が納富治部大夫の兄であった事から屋敷若干を下附されたのです。当時は旧藩時代、日蓮宗一二ヶ寺の一つとして色衣聖人の寺格で優遇されましたが、幕末の廃佛毀釈の大変革により退廃しました。しかし、当山中興二十七世日孝上人(大正九年八月遷化)続いて三十世智常院日豊上人の不折の精進による布教伝導の結果遂に現本堂の大改築が昭和七年に成就圓成されました。
時は流れ流れて、静かであった田園の一角も都市化が進み、変貌の一途をたどっているのが今日この頃です。
武雄市武雄町大字武雄
池永英寛住職
武雄温泉駅より西へ車で約六分。南東には御船山を望み、武雄市内で唯一の日蓮宗寺院です。
天正五年(一五七七)草創。開山は一乗律師日粒上人。二世不詳、三世日真、四世日禅、五世日光、以来歴代不明、二二世日恭、二三世日昇、二四世より二六世まで不明、二七世日賢、二八世日道、二九世日寿。
開基は田中安藝守朝門公といい、武雄領主十七代後藤職明公の側室で、母品子の追福のため建立されました。
文政元年(一八一八)、暴風で本堂等全て倒壊し、火災を起こし庫裡や仏像、什器、その他書類等の一切を焼失しました。
その後、熱心な日蓮宗の信者で武内町真手野の大庄屋、宮原忠勝が再建に努力し、翌、文政二年、仮本堂を建て、数年後に本堂の新築を完工し、復興が続けられた。
現在の本堂は、大正三年(一九一四)五月十三日新築起工。満一ヶ年を要して、翌大正四年五月十三日に完成したもので、同年十月二十七・八日の両日には大正天皇御即位大典記念を兼ね、本堂新築開堂式・本尊遷座式が挙行されました。
堂内には他に、日朝上人木像・最上位経王大菩薩像・西之原尊霊御像・鬼子母神像が奉安してあり、本堂左の境内には清正公堂があります。昭和五五年には宗祖日蓮大聖人第七百遠忌記念事業として庫裡の改築を成し、今の姿となっています。
日蓮宗の大信者として知られた加藤清正公の木像を文政十年(一八二七)大村領彼杵より迎え、初めは本堂内に奉安してありましたが、大正三年、本堂新築に際し、お堂の建設が計画され大正十一年に建立され安置されています。
尊霊は、多久男爵家梅渓一睡大居士の大叔母にして林姫と称せし人となり。故あって順導院日護上人に依り勧請せられ、衆の尊信するところなり、参拝者は之を安産守護として礼拝す。
二八世順正院日道上人が当寺に入るや、該尊像を毎年お会式の際、多久より神輿にて出張開帳ありしが、大正十二年に、有志の勧誘により当山に安置す。
佐賀県唐津市八幡町六三七
第二十六世 鶴孝澄住職
JR西唐津駅より呼子方面行きのバスで「中ノ瀬」バス停下車、徒歩十五分の所にあります。
安住山昌善寺の開創は、花園天皇代永享八年八月八日、開山久遠成院日親上人を佐賀県諸富町北村為重の地にまつり、檀越久保六良助が創立し、爾来五百六十八年を経ています。
当山は、もともと檀家がない大行結社教会所として出発しておりますが、昭和九年、法蓮寺・大乗寺より檀家を譲り受け、その折に、第一世から第二十三世まで為重の地にありました安住山昌善寺の寺号を第二十五世智照院日透上人と世話人の篤志により現在の地に移動しました。絶大なる檀信徒の支援外護の下に山腹を開墾し本堂・位牌堂・庫裡を新築し昭和九年十二月十八日に竣工し現在にいたります。
毎月八日 祈祷会
二月十一日 大黒天大祭
五月三日 鬼子母神大祭
八月三日 施餓鬼会
十一月十一日 御会式
佐賀市嘉瀬町荻野一八八
渕上靖聰住職
佐賀市の西端、嘉瀬町の「森林公園東」バス停のそばにあります。
妙福寺の開山日親上人は、永享五年(一四三三)九州肥前国小城郡松尾山光勝寺に九州総導師として赴き、死身弘法、ちまたに折伏の教線をはられました。特に三日月町三ヶ島では、大きな石を講座として百日間の説法を行われ布教を展開されました。日親上人は二十二歳の時、この地に一寺を建て、肥前国における親師門流の「本寺」と定め、「説法石」にちなんで山号を「石岡山」と称されました。これが現在の妙福寺のはじまりです。
慶安元年(一六四八)に当山第十世日乗上人により、三ヶ島より現在地(嘉瀬町)に移されました。明治初年まで末寺九ヶ寺を数え京都本法寺の末寺とされていました。昭和十四年、本堂・日親堂・山門等を増改築し、また平成十三年には、立教開宗七五〇年の記念事業として庫裡を改築して現在に至っています。
寺宝としては、日親上人御真筆本尊(応仁第二戌子年=一四六八)と日親上人の御尊像などがあります。
明治初年に旧藩時代から数百年続いた刑場が廃せられ、妙福寺はその刑場跡の管理をまかされたのであります。当山第十九世日仙上人は三夜続けて罪人の夢を見られたので、塔婆をたてて罪人の供養をされました。その後第二十三世日潮上人が現存する千人塔を建立されました。昭和四十年八月嘉瀬川改修工事のため千人塔は嘉瀬川の河畔(現在の森林公園)から妙福寺に移されました。
佐賀市長瀬町五番二十九号
平井智嚴住職
「長瀬町」バス停下車、徒歩五分
御開山は松尾山第二十世尊重院日潤上人。御開基檀越は谷口清左衛門尉長光公で家敷の御寄進により現在地に本山松尾山光勝寺佐嘉布教所(本山の佐賀事務所)として寛永年間に開創されました。松尾山直末流、末頭職として住職は貫首様の命により入寺し、院代、執事長、参与等その時代の重要な役職を任ぜられました。
谷口家の御先祖は鍋島藩御用鋳物師として日本最初の鉄製大砲の鋳造部門を担当し、日本の近代工業の礎を築かれた一人であります。明治維新後は谷口鉄工所を起こし、福岡市日蓮聖人・当山安置正観世音菩薩・身延山波木井公等々幾つもの大銅像を鋳造しました。日蓮聖人御銅像は明治三十七年、当寺が建立現場事務所となり、全国から沢山のお上人様や檀信徒が集い、無事完成を願い昼夜を問わずお経が唱えられる中、谷口鉄工所で鋳造され、何台もの大八車に分けてお乗せし、泰教寺より第二十七世日宏上人のご先導で団扇太鼓を打ち鳴らし、大行列で出発され、東公園に建立されました。その後、第二次世界大戦中の金属回収令により多くの銅像等々が出陣されましたが、日蓮聖人大銅像については当時の全国寺院、檀信徒へ呼びかけ一丸となって、回収回避の大運動を展開し、飛行機二機を献納する等により回収撤回となり、現状保存が叶い、当山は松尾山・博多銅像様とは深いご縁で結ばれ、現在に至ります。
御開山書翰・涅槃画像・御本尊は小湊誕生寺日諦・身延山日光・池上本門寺日光・京都本圀寺日唱・村雲日栄・松尾山日慎・松尾山日学等々があります。
本堂・守護神堂・天神堂・山門・庫裡
武雄市北方町大崎七六九
山中前賢住職
広大な田園風景広がる中、本堂を守るかの様に大きな樟が正面に二本並び、木々に囲まれた静かなお寺です。
祐徳バス大崎バス停より徒歩で約十分。
開山上人 萬部院日賢聖人
第二世 元除院日照上人
第三世より第六世まで不明
第七世 日明上人
第八世より第十一世まで不明
第十二世 元修院日順大徳
第十三世 日現大徳
第十四世 俊光院日理大徳
第十五世 智明院日長大徳
第十六世 観秀院日嚴大徳
第十七世 龍之院日清上人
第十八世 智徳院日栄上人
第十九世 正導院日国上人
第二十世 慈光院日精上人
第二十一世 體玄院日祥上人
文久二年(一八六二)本堂が焼失し、第十八世智徳院日栄上人代の明治三十四年十一月に現在の場所に移転し現本堂・庫裡が再建されました。第十九世正導院日国上人の代に増築によって庫裡も大きくなり、第二十一世體玄院日祥上人の時にも増築され現在の姿になりました。また、昭和五十三年日祥上人により鐘楼を建立され、朝夕の静寂の中毎日欠かさず朝五時五十五分、夕方六時にそれぞれ六回ずつ撞かれて時には人々の目覚まし時計となり、時には子供たちの帰宅時間として荘厳な鐘の音が鳴り響いています。
御開山萬部院日賢聖人がこの地に参られた時、三十件ほどの部落でした。当時ひらくち(マムシ)に悩まされた土地の人の為に、何日もかけて一千万編の御題目を唱えて祈念されました。その時に記念の石碑が建立され、そこには奉唱満首題一千万返成就之処と記してあり、今でもその碑はひらくち神さんと呼ばれ残っています。現在の姿は平成十六年五月に修復された物です。
(銀杏・樟・樫)
御先師達が植えられた梅林寺の銀杏・樟・樫等の樹木は見事な大木となり本堂、庫裡等を台風被害より守ってくれる。大木が無かったら、その被害を想像した時、よくぞ頑張った、おおきにご苦労さん、御先師達の遺徳の大きさを偲んでは、そのお陰に大感謝です。
(ケヤキ)
小学校六年生の十月十七日小僧になるために弟子入りした福岡の本仏寺の本堂は総ケヤキと紹介され、内陣の前机は大きな大きな前机で毎日のお勤めの朝勤で誰よりも早く本堂に行ってローソク線香に火をつけるのが自分の修行だと決めていました。修行の場の一つである内陣の板張りもまた総ケヤキでした。その時の思い出が梅林寺の本堂内部を改築した時、施工の業者に内陣の板張りはケヤキと依頼したところ、「反り返りますよ」との返事でうなずいてくれないのを是非との願いで見事なケヤキの板張りになりました。
多久市東多久町大字別府六四六
[交通]
JR唐津線東多久駅より徒歩十五分
藤木弁昇住職
長栄山宝蔵寺は、今を去る四百数十年前(天正二年)宝蔵寺蔵人行綱公(平家の臣下)の御開基にて御開山は日軍上人。爾来法燈連綿として今日に至ります。幾星霜に荒廃した本堂も師父当山四十世久遠院日栄上人代、昭和五十九年に改築、その後庫裡も平成十二年に総代役員檀信徒の信仰の力を以て新築し、寺観を一新しました。寺伝に依れば、御開基行綱公の持仏十一面観音様(一寸八分の黄金作り)が明治中期に当山歴代上人の霊夢に依り本堂裏手の広さ六畳位の洞穴より出現し、熱病平癒の仏様として近郷近在の人々の信仰を集め、その功験大いに知れ渡ったと伝えています。又、当山墓所には今年開創三百年を迎える孔子廟(多久聖廟)を創建された多久四代邑主茂文公の御生母覚心院様の墓所と、明治中期に我が国初の無線電信の工学博士となられた志田林三郎先生の墓(自然石で高さ四メートル位)があります。
ペリーが来航し、モールスが発明した電信機を幕府に献上した次年、安政二年に別府村の饅頭屋の息子として出生した志田林三郎博士は、若くして夫と死別した母を助け、一度に来た大勢の客のお釣も正確に渡し、神童と呼ばれました。その才智を以て東原庠舎(学問所)へ進み漢書等を読解し、地元の篤志家大庄屋木下家他有志、殊には佐賀藩の藩費を以て東京工部大学校へ進み、電信学を専攻し、首席で卒業。在学中の様々な発明・実験の功績によりイギリスのグラスゴー大学へ留学、物理学の第一人者トムソン博士にその才能を認められ、機器の発明等に対し、学位と共に金メダルを授与され首席で卒業されました。氏の発明は悉く実用化され、NTTの前身、逓信省の工務局長を務め、電気学会の初代会長として活躍されました。また当山歴代住職には、志田博士と同じく、地元の篤志家の温かい援助で苦学され宗門の最高学府東京立正大学の教授となられた執行海秀先生を輩出しています。
偉大なる先人達には、宗祖も説示された先祖報恩父母孝養の心があり、その功績は今日へと続いているのであります。
小城市三日月町金田一〇〇
[交通]
昭和バス「久保田」バス停より徒歩五分、祐徳バス「徳万」バス停より徒歩七分です。
JR長崎本線久保田駅より徒歩十五分
永享五年(一四三三)の創立で御開山は久遠成院日親上人であります。御開基は日円上人で天台宗より改宗されました。現在は、当山第二十四世も勤められ、第二十六世として再就任されました大峰妙玲住職が法灯を継承されております。
後奈良天皇(在位一五二六〜一五五七)の勅願所でありました京都本満寺の第二十九世日雄上人が開眼された天拝高祖日蓮大菩薩の木像は、後陽成天皇御病気の折、本満寺貫首が宮中に参内し祈祷せられた時に拝せられた尊像で、「天皇、病床より起き出でて合掌し拝せられたる尊像」として伝えられ、のち勇猛院日幸上人によって郷里である三日月村に持ち帰られました。故に天拝の御祖師さまと親しまれ山号も天拝山と改められました。現在では日蓮宗准宗宝に指定され、本堂御宝前の御厨子に安置されておりますが、特別な時にしか御開帳がなく、平成四年の本堂落慶式以来御開帳されておりません。
明治期、十九世日宝上人代に感得勧請されました子安鬼子母神は、当時の篤信者の方々の髪を植毛されており、毎年十二月八日の鬼子母神祭にのみ御開帳があり、その御尊像を現わされます。
佐賀市川副町大詫間五九〇番地
佐賀市営バス犬井道線大詫間行「大詫間バス停下車徒歩五分、佐賀駅より車で二十五分」
天和元年(一六八一年)、時の土地領有者である深堀公(鍋島豆州史)が建立して、正法弘通のため大僧都法印妙典院日崇上人を招き開山とし、大詫間開拓の歴史と共に発展してきました。
平成三年に二度の大風により甚大な被害を受けましたが、檀信徒一同の協力により平成八年現本堂の落成で総て寺観は一新されました。
正傅寺に伝わる半鐘は、天和三年(一六八三年)に制作されたもので、植木善平衛政住の作で、銘文の撰は佐賀藩の儒学者として有名な石田一鼎で、銘文には大詫間の成立の経緯、大潮や風水害との苦闘など開拓の歴史が記してあります。また、慶安三年(一六五〇年)の災害による死者を、この釣鐘を鳴らして御経を唱えて弔ったことも刻まれています。
法華経は、お釈迦様が説かれた多くの教えの中で最も奥深い真理を表したもので、とくに正しい真理「正法」と言います。
この法華経二十八品の内八枚を図案化して、高さ八十二センチ、横百八十センチ、厚さ二十一センチのケヤキの板に両面彫りにして、六年の歳月をかけて制作されました。
日蓮聖人の伝記を絵巻として、室町時代の代表的な作品(註画讃)は旧国宝に指定されていた物です。
この註画讃をもと絵として、長い物は横、約三百四十センチ、短い物は約百三十四センチ、高さ六十四センチの大小二十五枚のケヤキ板に五年の歳月をかけ彫り上げられた物です。
一月一日 新春加太祈祷会 十時〜十六時
毎月九日 鬼子母神祭月参り
一月三十日 鬼子母神大祭、大黒天大祭、星祭大祭 午前十一時より
三月十八日〜三月廿四日 春彼岸会 午後二時
八月十六日 施餓鬼法要 午前十一時より
九月二十日〜九月廿六日 秋彼岸会 午後二時
十月四日 御会式法要 十一時より