日蓮宗は、宗祖として日蓮大聖人を仰ぎ、釈尊の教えの中から大聖人が選ばれた、「妙法蓮華経」(略して法華経という)を聖典として、その教えを弘めることにより、この世界を平和な仏国土たらしめんとする教団であります。また歴史上のお釈迦様ではなく、法華経の中で説かれた、永遠なる存在である「久遠の本師釈迦牟尼佛」を本尊としています。さらに日蓮大聖人は、法華経の通をたくされた仏使の自覚に基づいて法華経を弘められました。したがって、日蓮宗宗徒の帰依すべき「仏」・「法」・「僧」の三宝は、「久遠の本師釈迦牟尼佛」・「法華経」・「日蓮大聖人」、となります。
このことを「日蓮宗宗憲」の第一条には、「日蓮宗は久遠実成本師釈迦牟尼仏から、その本懐である法華経を、末法に弘通することを付属された本化上行菩薩の応現、日蓮聖人が開創唱導した真実の仏法を開顕する仏教正統の宗団である」とある。
日蓮大聖人は、鎌倉時代(1222-1282)に、末法の世の人々を救い、この世界を平和な仏国土にしようと、その生涯を捧げられた法華経の行者であります。日蓮大聖人の行動理念の根本は、正(法華経)を立てて、国(日本国)を安泰にするという『立正安国論』の精神に基づいたものでありました。また、手紙や論文など、数多くの著作物を残されており、それらは総じて「御遺文」とよばれています。その中から今でも日蓮大聖人の思想、人柄をうかがい知ることができます。
西暦 | 年号 | 年齢 | 事柄 |
1222 | 貞応元年 | 1歳 | 2月16日、千葉県小湊に生まれる。 |
1233 | 天福元年 | 12歳 | 5月12日、清澄山に登り虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」と立願する。 |
1237 | 嘉禎三年 | 16歳 | 道善房に就いて出家、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名乗る。 |
1238 | 暦仁元年 | 17歳 | 鎌倉に遊学。 |
1242 | 仁冶三年 | 21歳 | この年より12年にわたり比叡山を初めとする、京都・奈良の諸寺に遊学する。 |
1253 | 建長五年 | 32歳 | (立教開宗)4月28日、清澄山の旭が森において、はじめて南無妙法蓮華経と唱え、法華経信仰を宣言する。 |
1253 | 建長五年 | 32歳 | 日蓮大聖人の主張が、念仏を信じる東条景信の怒りにふれて清澄山を追われる。 |
1253 | 建長五年 | 32歳 | 松葉谷に庵を構え、鎌倉にて辻説法を始める。 |
1254 | 建長六年 | 33歳 | 日蓮と改名する。 |
1260 | 文応元年 | 39歳 | 7月16日、『立正安国論』を著し前執権北条時頼に奏進。 |
1260 | 文応元年 | 39歳 | (松葉谷の法難)8月27日、念仏者によって鎌倉の草庵を焼き討ちされた。 |
1261 | 弘長元年 | 40歳 | (伊豆流罪)5月12日、幕府に捕らえられて伊豆伊東に流される。 |
1263 | 弘長三年 | 42歳 | 2月22日、流罪を赦免され鎌倉に帰る。 |
1264 | 文永元年 | 43歳 | (小松原法難)11月11日、小湊から鎌倉に帰る途中、東条小松原において東条景信に襲われ、日蓮大聖人は頭に傷を負い、弟子鏡忍房ら数名が殉教。 |
1271 | 文永八年 | 50歳 | 6月、日照りに対する祈雨をめぐって良寛房忍性と対決し、讒訴(ざんそ)される。 |
1271 | 文永八年 | 50歳 | 9月12日、幕府に捕られ、佐渡流罪に決定。 |
1271 | 文永八年 | 50歳 | (竜口法難)9月13日未明、一時預かりの相模依智へ送られる途中、竜口にて斬首にあいかける。 |
1271 | 文永八年 | 50歳 | (佐渡流罪)9月28日、佐渡に到着する。10月1日、塚原の三昧堂に住む。 |
1272 | 文永九年 | 51歳 | (塚原問答)1月16日、念仏者と問答する。 |
1272 | 文永九年 | 51歳 | 2月、雪中で弟子へのかたみとして『開目抄』を著す。 |
1272 | 文永九年 | 51歳 | 4月7日、塚原から一谷(いちのさわ)の地に移される。 |
1273 | 文永十年 | 52歳 | 4月25日、『観心本尊抄』完成。法華経信仰の真髄を著す。 |
1273 | 文永十年 | 52歳 | 7月8日、大曼荼羅御本尊をはじめて書きあらわす。 |
1274 | 文永十一年 | 53歳 | 2月14日、佐渡流罪を赦免される。 |
1274 | 文永十一年 | 53歳 | 3月13日、佐渡を出発し、26日鎌倉に帰る。 |
1274 | 文永十一年 | 53歳 | 4月8日、幕府の質問を受け蒙古襲来の近いことを答え、諌言するが、聞き入れられず、ついに断念。 |
1274 | 文永十一年 | 53歳 | 5月12日、鎌倉を立ち、17日、身延山に退隠。 |
1275 | 建治元年 | 54歳 | 6月、『撰時抄』を述作。 |
1276 | 建治二年 | 55歳 | 3月16日、清澄での旧師、道善房が死去。 |
1276 | 建治二年 | 55歳 | 7月21日、『報恩抄』を述作し、26日、弟子の日向(にこう)を遣わして旧師の墓前に捧げる。 |
1277 | 建治三年 | 56歳 | 6月23日、四条金吾が主君の江間氏から改信をせまられ、日蓮大聖人が代わって「頼基陳情」を著し弁明する。 |
1278 | 弘安元年 | 57歳 | 年の初めより下痢をわずらい、6月には重体となったが、四条金吾の投薬により回復。 |
1279 | 弘安二年 | 58歳 | (熱原法難)9月、駿河の日興(にっこう)上人とその信奉者たちが迫害され、熱原の農民信徒20名逮捕される。日蓮大聖人は弁明書や激励書を作る。 |
1281 | 弘安四年 | 60歳 | 11月24日、身延の草庵を改築する。 |
1282 | 弘安五年 | 61歳 | 9月8日、病状好転せず、周囲の勧めもあって常陸の湯に療養するために身延を下山する。 |
1282 | 弘安五年 | 61歳 | 9月18日、檀越である池上宗仲の館(現在の池上本門寺)に着く。 |
1282 | 弘安五年 | 61歳 | 10月8日、臨終がせまるのを感じ、本弟子(六老僧)を定め、後時を託す。 |
1282 | 弘安五年 | 61歳 | 10月13日、辰の刻(午前8時)入滅。 |
1282 | 弘安五年 | 61歳 | 10月14日、子の刻(午前0時)葬送の儀。 |
1282 | 弘安五年 | 61歳 | 10月19日、遺骨は池上を立ち、身延に向かう。 |