「頂きます」の精神

私の寺のある地域は、地域の習慣で、昔は供養の後の食事といえば豆腐や、煮しめなどの精進料理がほとんどでした。今では、逆に精進料理の時が、まれになってきました。これも時代の流れかもしれません。この間、たまたま精進料理が出された席で、子供から「お坊さんは普段から精進料理を食べているの?」と質問されることがありました。「普段は皆さんと同じものを食べますよ。」とお答えしましたら、不思議そうな顔をされました。精進料理=仏教=お坊さんなのかも知れません。

さて今回は、ひとつ屁理屈をお話ししたいと思います。実は、お釈迦様は精進料理を食べたことがなかったのです。精進料理というのは、後のお坊さんたちが修業の妨げになるということで、肉、魚などをとらない料理として考えられたものなのです。では、お釈迦様は実際どんな料理を食べられていたかというと、普通の料理を食べていたのです。ただし、いくつかルールがあって、一つは特別に用意されたものはダメ。もう一つは絶対に頂いたものは残さず食べるというものでした。

お釈迦様は生き物を殺してはダメということを、守らなければならないルールとしていましたが、これは動物だけではなく植物にも当てはまるのです。だから野菜であっても生き物を殺したことになる。食事をとることは何であっても命を頂くことに他ならないのです。ですから特別に用意されたもの(自分のために殺された命)はダメ、残さず食べる(頂いた命を無駄にしない)ということになります。お釈迦様も日本人のように「頂きます」の精神を大切にされていたのです。

最後に余談になりますが、沢山の食べ物を頂くのは人気のある証拠で、徳の高いお坊さんかどうかは、その体つきを見ればすぐに分かったそうです。お釈迦様は、当然一番人気でしたので、大仏など仏さまの像を見てもらえば分かる様に、大変ふくよかな体型だったそうです。

『親の恩』

最近の調査で、一生独身で過ごす男性の割合が50%を超えたそうです。また、35歳を過ぎて結婚をしていないと、92%の割合で一生独身のままだそうです。

私が結婚できたのが35歳の時だったので、奥さんにはよくぞ来て下さったと、感謝してもしきれないくらいです。おかげさまで、現在2歳の男の子と8ヵ月の男の子、2人の子宝に恵まれ、夫婦円満に過ごしております。

しかし、子育てというのは、いつの時代も難しいもののようで、この間はちょっと目を離した隙に、上の子が本堂の入り口の線香立ての灰を、花咲かじいさんのように外に向かってまいて遊んでおりました。私がいないときには2人の子を見てもらっている奥さんには、ますます頭が上がりません。

このように、自分が子育てをするようになって改めて思うのが、自分の親に対する感謝の気持ちです。私は3人兄弟で、それも年子だったので、大変な思いをして育てて下さったのだと、今更ながらに痛感しております。

日蓮大聖人は、『知恩報恩』ということを説かれております。自分がこれまでにどれだけの恩を受けてきたのかを知り、その恩に報いていかなければならないということです。

日蓮大聖人は、母親の供養をお願いされた信者への手紙の中で、「自分も母親から受けた恩は忘れがたい」と書かれております。産みの苦しみから始まり、育てるときに与える母乳は、3年間でおよそ180斗3升5合、3,250リットルにもなるそうです。これだけのものを母親の体から分け与えられているのですから、その恩というのは計り知れません。たとえ一円でも米一粒でも、他人から盗んだならば、罪に問われます。しかし子供は、親からこれだけのものを得ても、何も言われず大丈夫なのです。

それでは、この親の恩に対して、私達はどの様にして報ずるべきでしょうか。

日蓮大聖人は、大恩ある親に対して、敬いの心をもって接することが、まず大事であると説かれております。普段から心と態度で、きちんと感謝の気持ちを伝えることが必要なのです。

その上で、供養をすることの大切さも説かれております。亡くなった親に向けて、法華経とお題目をお唱えして供養することによって、親の恩に報ずることができるのです。

親が生きているうちに親孝行をできなかったと、嘆くことはないのです。きちんと仏壇に手を合わせ、真心をこめて法華経・お題目をお唱えすること、それがまさに親孝行となるのです。

『毎日を豊かに』

「生き方は逝き方」という言葉があります。元々、生きとし生けるすべてのものには必ず、『死』というものがやってきます。誰しもが、遅かれ早かれ巡ってくるものなのです。

昨今、「終活」「エンディングノート」「QOL」などという言葉が注目されるようになりました。段々と、「人生とはなんだろう」、「人の価値とは」といったことに目を向ける人が増えてきている表れではないでしょうか。

確かに私達は、どんな手段を使っても、どれだけの信心があっても、その命に終わりがあるものです。永遠に生きることは不可能なようです。

ですがどうでしょう、私達はなぜか、「死ぬ」という現実から目を背けがちです。

人間とは不思議なものです。体が元気な時には、病気の苦しみは想像できません。逆に、人間の体は、健康な時をしっかり覚えていて、病に伏せっている時には、元の健康体に戻ることをひたすらに望みます。

これと同じように、生きている間には、自分が死ぬなんてことを想像すら出来ない人がほとんどです。誰が生きているのに早々と死ぬ事を考えるでしょうか。

『先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし』(妙法尼御前御返事)

日蓮大聖人は、私達に対して、「死ぬということを自覚しなさい、人生に悔い無きように生きることが大事である」と仰せになっています。

私達は、人間として生まれ、人生80年と言われる、長いようで短いいのちを頂いているのです。

そのゴールに向けての一歩一歩、何気ない毎日を大切にしようと考えると、日々このいのちがある事への感謝、御先祖様への感謝、毎日食べ物がある事への感謝などと、自然と生きとし生けるもの全てへの感謝の気持ちが生まれてくるはずです。そして、その事を念頭において人間として心が豊かになる事をしなさいよ、というのが「他事を習う」ことなのです。

「いのち」とは何か。私達は何を信条に生きるべきか。

人々の生きる目的、生きとし生ける物の命の目的を説かれたものが、お釈迦様の教えであり、日蓮大聖人の教え、お題目なのです。

この科学万能と言われる時代に、生きる目的を見失って、日常に追われていませんか?法華経、お題目をお唱えすることで、心に芯を持った生き方をし、「あぁ、今日も一日良かったな」と言える日々にしていきましょう。

天国と浄土

テレビや新聞で、また葬儀の時などによく見たり聞いたりするのですが、死後の世界や理想世界のことを指して、「天国」と表現される方が多いようです。

マスコミ関係の仕事に就いている方は高学歴の方が多く、机の上の勉強はたくさんされているようですが、宗教についてはどれだけ学ばれているのでしょうか。

もちろん、しっかりした信仰に基づいての表現なのかもしれませんが、佛教の側からみれば違和感があります。

快適さや物の豊かさを求め、何でも望み(我欲)が叶う理想世界を「天国」と捉えているのではないでしょうか。

けれども、そこに心の満足がなければ、佛教ではそれはまだ迷いの世界なのです。

今年の十月頃に新しく映画ができるそうですが、約三十年程前、テレビで「おしん」というドラマがありました。

その中で、約百年ほど前の世の中は物質面では貧しく、多くの人が子供を幼い頃から奉公に出さなければならない時代だったようです。

私がたまたま見たシーンで、おしんの祖母が「自分で作っているのに食べられない白米を、一度でいいから食べてみたい」と言っていたので、おしんが奉公先より頂いた白米を食べさせたところ、そこで祖母が「これで思い残すことはない。幸せな人生であった」と嬉しそうに話すところがすごく印象に残っています。

現在、いわゆるアベノミクスによって、多少は景気も良くなってきているようですが、それでもまだ不況だという言葉をよく見たり聞いたりします。

しかし、毎日のゴミの量を見ても、私達の生活は、おしんの時代と比べたら、格段に豊かになっているはずです。

当時からすれば天国のように見えることでしょうが、果たしてこれが理想世界なのでしょうか。

心、魂を無視しては理想世界は実現しません。自分の欲望を叶える事だけを優先し、勝ち組・負け組だと競争ばかりを考え、損得だけで行動し、金儲けを第一としたりと、今の世の中では大切なことが見失われているのではないでしょうか。

まずは、私達の怒りや妬みといった気持ちを見つめ直して、心の立て直しをしてみてはどうでしょう。

佛教でいうところの理想世界、いわゆる浄土とは、物はそれ程無くとも、何にでもありがたいと報恩感謝をし、心満足する世界のことです。

そこに真の安らぎがあり、今生かされているこの世(娑婆世界)を離れては、浄土はどこにもありえないのです。

『娑婆即寂光』という教えが法華経にございます。必要以上に求めることをせず、何にでも感謝をし、心が満たされる世界。「天国」ではなく「浄土」を、私達の住むこの世界に実現できるのが佛様の教えなのです。

なぜお仏壇をお祀りするの?

起塔供養 (塔を起てて供養すべし)

所以者何 (ゆえはいかん)

當知是処 (当に知るべしこの処は)

即是道場 (即ちこれ道場なり)

                (如来神力品 第二十一より)

時折、法事や葬儀の席で、

「私の家にはまだ故人がいないので、お仏壇はいりません」

「私の家は分家だから、お仏壇はいりません」

という言葉を聞くことがあります。

さて、そもそもお仏壇とは一体どういうものなのでしょう?

一般的にお仏壇は、ご本尊、日蓮大聖人の御像、ご先祖様のお位牌、そしてお香(線香・焼香)、お花、灯明をお供えし、朝夕供養し、報恩感謝を捧げる壇のことですが、亡くなった人を祀るだけのものではございません。

ご本尊を中心にお祀りすることで、そこが修行の場になるという意味もあるのです。

また、ご先祖様と私達の関係は、本家だから分家だからということで変わるものではありません。

私達一人一人それぞれが、ご先祖様が一人でも欠けていれば、この世に生まれていなかったのです。

ちなみに、ご先祖様を10代前までさかのぼると1024人、20代前までさかのぼると104万8576人もいらっしゃいます。

このようにたくさんのご先祖様が、私達にいのちを繋ぎ、守ってくださっているのです。

しかし残念ながら、普段はそういったことをなかなか意識しませんので、現実には身内の誰かが亡くなってから初めてお仏壇を用意する、という方が多いようです。

このお話の最初に紹介しました、如来神力品のお経文は、

「法華経の力を信じ、お題目という宝塔を起てれば(唱えれば)、自分がいる処ならどこでも、道場(修行の場所)となりますよ」

と説かれております。

例えば、職場や学校、もちろん皆さんが普段生活をしている家庭でも、お題目をお唱えすることで、そこがそのまま道場となり、仏様やご先祖様に、祈りを捧げることができるのです。

皆さんの心の中で、お釈迦様、日蓮大聖人、ご先祖様に手を合わせ、また家庭の中心にお仏壇を置いて、日頃からお題目修行に励んで頂ければ、日常のあらゆる出来事に対して、報恩感謝の気持ちで臨めることでしょう。

一口法話その3(立正安国論)

汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに實乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆佛國なり、佛國其れ衰へんや。

十方は悉く寶土なり、寶土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば、

身は是れ安全に、心は是れ禅定ならん。

此の詞、此の言信ずべく、崇むべし。

立正安國論とは正法(法華経 正しい教え)をもって、この世界に仏國土(仏の世界)を現し日本国及び全世界の人々を幸福に導く為に、日蓮大聖人が御年三十九歳の時、お釈迦様の誓願を実現する為に当時の鎌倉幕府の権力者北条時頼に提出された書物です。

日蓮大聖人は、幾度の災難を乗り越えられて新潟の佐渡から許しを得て鎌倉に戻るとすぐに、鎌倉幕府に対してお釈迦様の真実たる法華経の教えに基づく政治を「立正安國論」の趣意をもって三度目の国家諌暁(いさめさとす)をなされました。しかし幕府に受け入れられず、弟子の養成と自らの仏道修行を志して甲斐の国(山梨県)、身延山(現在の日蓮宗総本山)に入られたのです。

身延にて布教すること九ヶ年、身延のお山を寄進して頂いた波木井実長公に感謝の言葉を述べられ、臨終の近きをお悟りになられた日蓮大聖人は、身延山を下山されます。弘安五年九月十八日池上宗仲公の館(現在の東京都大田区池上・日蓮宗大本山池上本門寺)に到着されました。

日蓮大聖人は自らの命の灯火が消えることをお悟りになられておられました。そのような病状の中、多くの弟子や信者を前に今も池上大坊にのこる床柱に背をおよりかけられ、最後の力を振り絞りご講義なされたのも「立正安國論」だったのです。

日蓮大聖人の六十一年に及ぶご生涯は、

「汝早く信仰の寸心を改めて、速に實乗の一善に帰せよ」

この実現の為だけに過ごされた苦難と法難のご一生でした。そして残されし人々、後に続く人々への自らの体験で示した教えと激励でもあるのです。

日蓮大聖人は「立正安国論」の内で「一刻も早く国主も国民も法華経の信仰にあらためねば、いまだおこっていない他国から押し入られ、国内においても疫病・天災・大飢饉に悩ませられるであろう」と予言なされていたのであります。

今この世の中、いかがでしょうか。諸外国の紛争やテロ、また温暖化で起こりえる地球の問題、日本国内でおこる様々な問題等につながっているのではないでしょうか。

日蓮大聖人は、私達が住む此の世界を本当の、佛の国(仏様が住む世界)とする第一歩は、私達一人一人がお題目を唱え、佛の子であるとの自覚に立って、「信仰の寸心」即ち尊い佛の世界から生まれたその生き方、考え方を改めようとする所から始まるのだと仰せにならました。「實乗の一善(=妙法蓮華経)に帰す」とは、まさにこの事なのです。

私達は、この乱れきった世の中を浄化する為にお釈迦様の真実である法華経の教えを実践し、お題目を唱える事で世界平和を実現して行かなければなりません。

一口法話その4(写経のすすめ)

昔から、お坊さんに必要なことが三つあるといいます。まず、お経を読むこと、それからお話しをすること、最後に筆で字を書くことだそうです。最初の一つ目は言うまでもないでしょう。教えを説くという立場から二つ目も、上手下手はありますがやはり必要なことです。さて三つ目はというと、御位牌に、卒塔婆に、御札と現代においても必要な場面は多いようです。以前テレビのニュースで紹介されていましたが、自動卒塔婆印刷機などといったものもあるそうです。そこまで便利になるのは、いかがなものでしょうかと思いましたし、あまり受け入れられそうではないと思います。そういうわけで現代でも、この三つはお坊さんにとって必要なことのようです。

私は、生まれてからずっと食べるのも、字を書くのも、投げるのもすべて左手でやってきた生粋のサウスポーです。普段から筆をとられる方はご存知かと思いますが、左手では筆は上手く扱えません。何事にも近道はないもので、週に一度ですが書道教室に通って練習をしています。上手ではないのですが、筆で字を書くこと自体は好きなので、もう5年近く通い続けています。その時に、手習いの後に余った時間で、少しずつですが御経を書いています。略式ではありますが、いわゆる写経というものです。

さてこの写経、法華経の中に、5つの修行の一つとして挙げられています。一つ目が御経を大切に受け保つこと、二つ目が見て読むこと、三つ目が暗記して読むこと、四つ目が解説して人に説くこと、そして五つ目に最も大切なこととして写経をすることと記されています。

自我偈を一回で五百六十文字。紙は普通の半紙で、大き目に書いても百文字は入ります。ですから、題名を入れても半紙六枚あれば書き終わるわけです。別に一度で書き終える必要もなく、特別な紙を用意する必要もありません。

継続は力なりと言いますが、何事も無理をせずに、きちんと続けて行うことが重要です。私の書道の腕前も、右利きの人から見れば、マイナスからのスタートでしたが、何とか人に見せられるぐらいにはなってきました。

写経というのは、あくまで書くことに意味があるのですから、上手に書く必要はありません。気持ちを込めて、丁寧に書けばそれでいいのです。御経を読むということに慣れていない方も、紙と筆、それから御経本があればできる仏道修行として、写経をお勧めしたいと思います。