ちりしはな(散花)、をちしこのみもさきむすぶ、などかは人の返らざるらむ。こぞ(去年)もうく(憂)、ことしも(今年)つらき月日かな。おもひはいつもはれぬのゆへ。
日蓮大聖人御遺文「持妙尼御前御返事」
愛・慈悲・真心
花は散ってしまってもまた咲くし、木の実は土に落ちてもまた実を結ぶ。それなのにどうして逝ってしまった人は帰って来てくれないのか。去年も亡き人のことを思って、もの憂い日々であった。今年も悲しみは消えず辛い月日を過ごす。この思いはいつも晴れることないから・・・。この言葉に理屈はありません。大聖人は、ただ亡き夫を思い続けている持妙尼に同調され、その悲しみを共にされているのです。
先日、未曾有の被害をもたらした大地震と大津波により、多くの方々が犠牲になられた宮城県石巻市・女川町に、何か自分に出来ることはないかとの思いで足を運ぶ御縁を頂きました。約四ヶ月たっているその現場をみて、何も口にすることができませんでした。「ひどいひどすぎる・・・祈ることしかできない・・・」八箇所を廻り現地のお上人方と共に一心に御回向申し上げました。その中で全児童百八名の七割が水に飲み込まれた、大川小学校の近くでは今でも百名近くの警察関係の皆さんが一所懸命ご遺骨を捜されていました。その慰霊碑の前でテレビでは報道されていない現場のお話をお聞きしました。「アメリカの西海岸で子供さんのご遺体が見つかったんです。」「三月十一日震災から四日間避難した体育館では二千人が立ったまま寝たんです」等、驚く内容のお話に涙をこぼしました。慰霊碑の前にお子さん宛にかかれていた一文では『○○のこと捜し出してあげられなくてごめんね。○○に会いたくて毎日ここに来てるけど・・・どこかにきっといるはずなのに・・・夢にもでてきてくれないから寂しいよ。何もしてあげられなくてごめんね・・お兄ちゃんと○○には「涙を見せるな!」つて言っていたお母さんなのにお母さんはすっかり泣き虫になってしまいました。毎日お婆ちゃんとここで○○と同じ空気を吸っていたくて・・・それだけでいい。でもやっぱりもう一度○○の声が聞きたい 笑顔が見たい 夢の中に来てくれたらいっぱい抱きしめるからね・・・』最後にもう一人の方が「みんなが支え合う人の心の優しさに感謝すると共に、犠牲になった皆様の無念の思いを復興と再建の力に変えて前に進んでいきますよ。お経ありがとうございました。」
慈悲とは、他者と喜びや悲しみを共に出来ることだと言われています。つまりは、他者への思い、他者の立場に立てることが、慈悲であり、愛なのです。私達も個々に出来ることを心からの思いやり(慈悲心)で共にこの日本国に浄仏國土「仏の世界」を作ってまいりましょう。
『今を生きる情のありよう』
衆生の心けがるれば土もけがれ、情清ければ土も清しとて、浄土と云い穢土>と云ふも土に二つの隔なし、只我等が心の善悪によると見えたり。
『一生成佛鈔』建長七年(一二五五)
宗祖御年三四歳
日々、失われていく自然の姿を見るにつけ、また毎日のように繰り返し報道されている悲惨な出来事を知る度に、幸せの追求と云いながらも、この地球を「悪」へと変えている張本人は、結局は我々人間なのだとつくづく思ってしまいます。もしも、人間という一つの命が、この世に生まれて来なければ、地球はどんなに美しい、「みほとけの国=浄土」であったでしょう。
例えば、人間以外の他の総ての生き物は、いつも我が本分を尽くして、自然のままに、あるがままにこの世界に生かされて、自分の為に犠牲になってくれた生命を我が身の中に生かしながら、それぞれが<みほとけの>魂の一分を生きているのに、人間だけが<みほとけの>与えられた本来の目的に見向きもしないで、ただ目先の欲望の為だけに、自分の生命さえ「殺す」のであります。とても哀しいことだけれど、そんな人間の存在が、この世を「穢土=けがれた世界」にしているのではないでしょうか。
日蓮大聖人は、苦しみ多きこの世界を、み佛のおわす心豊かな国=浄仏国土とする為に、私達の"心のありよう"を、常にみ佛の心に通じる「善」へと誘う『御題目の信仰』を弘め、今を生きる私達にお残し下さったのです。私達の心が悪意におぼれ穢れてしまえば、私達の周りには悪者が集い、この世界は悪土となる。私達の心が善意に目覚め清らかになれば、同心の者が集い来たる素晴らしい世の中となるでしょう。「浄土」は他所に求めるのではなく、実は私達の心の中にこそ常に在ることをそして、その"心のありよう"が、この世界を「善」にも「悪」にもすることを、大聖人様は私達"幼き佛"にお教え下さっているのです。
人身は受けがたし爪上の土、人身は持ちがたし、くさの上の露。
百二十まで持ちて名をくたし(腐)て死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。
『崇峻天皇御書』建治三年(一二七七)
宗祖御年五六歳
人間がこの世に生を受けることは大変まれなことでさらに法華経に縁を頂くことなど大変難しいことなのです。これ程僅かな確率でしか生まれることが出来ない貴重な人間としてこの世に誕生して法華経に巡り会うことが出来ても私達は、草の上に出来る朝露のように非常に儚い存在なのです。だからこそ私達は、世の中が辛いなどと嘆いて、いたずらに空しい人生を送ってはいけないのです。人間が人間らしい生き方、すなわち世の為、人の為に尽くす生き方をし、他の人々に安らぎの心を与えるような日常生活を送る努力を怠ってはいけないのです。その為に、身と口と心で「南無妙法蓮華経」の御題目を一心に唱えることです。御題目を唱えれば、私達に元々具わっている『仏性』=清い仏が湧きだし自然と人間本来の生き方ができるのです。
『唯佛與佛 乃能究盡 諸法実相』
唯佛と佛と乃し能く諸法の実相を究盡したまへり。
「妙法蓮華経方便品第二」より
今回のお経文は、私達が良く読むお経の一つ、方便品の中の十如是(如是相、如是性…)の直前の一説です。
『仏だけが、あらゆる教えの本当の姿(実相)を理解(究盡)しているのですよ。』と、お釈迦様が弟子の舎利弗に説かれています。
お釈迦様の弟子の中でも、最も物事の理解が早いとされていた「智慧第一の舎利弗」でさえ、最高の教え、妙法蓮華経(法華経)は理解することができない。だったら、その他の弟子や、今生きている私達に、この妙法蓮華経という教えを理解することは到底無理なことでしょう。
では、私達に理解することができない蓮華経という教えは、役に立たないものなのでしょうか?
私達の身の回りをよく見て見ますと、実に色々なものが生活の中で活躍しています。テレビを見て楽しんだり、車を使って遠くへ行ったり、携帯電話でいつでも連絡が取れたりと、便利なものが沢山あります。
しかし、これらの全ての道具の仕組みを理解して使っている人は、一体どれほどいるでしょう。
テレビも車も携帯電話も、その中身を完全に理解せずとも、きちんと正しい使い方をすれば、私達の生活を豊かにしてくれるものです。
そう考えますと、物事の中身を完全に理解することは、意外と重要でないのかもしれません。本当に大事なのは、その正しい使い方を知り、私達の生活に役立てることなのではないでしょうか。
日蓮宗の祖であります、日蓮大聖人も、法華経について同じ事を考えられました。
理解することができないのならば、ただその力を信じればよい。法華経の中で、この教えによって仏の世界へたどり着けるとされているならば、お経そのものを信じる事を実践すればよい。とされ、「南無妙法蓮華経」(私は妙法蓮華経の力を信じます)と唱えることの大切さを説かれたのです。
また、日蓮大聖人は、「岸の上の人が私達を引っ張り上げようと縄を下ろしてくれているのに、縄を引っ張ってくれる人の力を疑っていては、いつまでたっても上へ登ることはできませんよ。」とも仰られています。
岸の上からの素晴らしい眺めは、岸の上にたどり着かなければ、下にいる人達には想像もできないでしょう。けれど、上へ引っ張ってくれる力を信じなければ、そこへは辿り着けません。まずは目の前にある縄を、引っ張ってくれる人の力を、信じることから始まるのです。
私達には仏様の教えを理解することはできないかもしれません。けれども、「南無妙法蓮華経」とお唱えした先には、世の中を見渡す仏様の智慧が待っていることでしょう。
共にお題目修行に励んで行きましょう。
「汝早く信仰の寸々を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然ればすなわち、三界は皆佛国なり。佛国それ衰えんや。十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく、土に破壊なくんば、身はこれ安全にして、心はこれ禅定ならん。この詞、この言、信ずべく崇むべし。」
立正安国論
日蓮大聖人の遺された著述、いわゆるご遺文の中で、最も有名と言っても差し支えの無い「立正安国論」の中の一説です。私達が、間違った信仰を改めて、全てのいのちを救う法華経に身をゆだねるならば、自然と仏様の世界へ近づいて行けるのである、と説かれています。
今の時代、新聞やテレビ等で、「現代人には信仰心が無い」という類の言葉を見かけることがあります。しかし、「何かを信じて身をゆだねる」という行為は、実はそんなに特別な行いでは無いのではないでしょうか。
今ではあたりまえになった携帯電話。携帯電話が、なぜ遠く離れた人と、直接線で繋がっているわけでもないのに話が出来るのか。その仕組みを理解して使っている人は、かなり少ないのではないでしょうか。いざ中身を説明しろと言われたら全くできない携帯電話を、私達は疑いもせず、自分の生活に役立つから使っているのが現実なのです。
そういわれたらそうだな、じゃあ全てのものを疑ってかかるか、と思う人もいるかもしれません。ですが、それはそれでとても大変な生き方になってしまいます。
自分が大切にしている様々なもの、家族や友人、生活の中で積み上げてきたものが、いつか自分を裏切るかもしれない、その価値が揺らいでしまうかもしれない。そんなことを考えながら生きて行くのは、常に周りに気を張り続けねばならず、心が休まることはありません。私達が休憩をする時に、背中を預ける背もたれや床などが必要なように、心地よい生き方をするには、必ず何かしらの身をゆだねる存在が必要となってくるのです。
何かを信じて生きて行くということが特別でないのだとしたら、私達は、何に身をゆだねれば、より良い生き方ができるのでしょうか。
日蓮大聖人は、世の中の出来事の良し悪しは、全て自分の心が決めているのだと仰られています。自分の心が怒りや悲しみで満ちていれば、目や耳につく全てが怒りや悲しみの対象でしかなく、逆に穏やかな心待ちで周りを見渡せば、どんなものでもありかたく、感謝の気持ちを見出せるのだと。その穏やかな気持ちを得る為には、法華経を信じ、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることこそが、一番の近道であるとされています。
速やかに法華経の信仰の道に入ることこそが、より確実な心の安らぎ、安心を得ることができ、その穏やかな心持ちで世界を見渡すことができたなら、全てのいのちを大切にする仏様の世界が、そこに見えてくるのだと、立正安国論で説かれているのです。
『法華経の行者をは第六天の魔王の必ず障べきにて候、(略)
魔の習いは善を障て悪を造しむるおば悦ぶことに候。
強て悪を造らざる者をば力及ばすして善を造しむ。』
「富木入道殿御返事」建治三年(一二七七)
新秋涼やかなこの時節に、本来ならば楽しく嬉しく時を過ごし、幸せの中で日々を送れたはずの人が、痛ましい事件や、事故に生命を奪われ、或いは大切な人を亡くし、傷つき、悲しみの淵に沈む現実は、私達の心を締め付ける。心当たりがあろうがなかろうが、気を付けていようがいまいが、世の中には、ただ「幸せそうだったからシャクに障った。」との理由だけで、簡単に人を害する事の出来る悪魔のような人も又、いるのである。何か一体、誰が一体、そんな無残な現実を、この世界に造り出してしまうのだろう。心しましょう、皆さん。努力の人(法華経の行者)には必ず困難が訪れふとした弱気に付け込んで、必ず魔はさすものなのです。例えば私達の中に、自分が置かれている困難な環境を、他人のせいだと責任転換し、せっかくの人生を逃げた記憶はないでしょうか。悲しみも苦しみも、所詮は自分の努力で乗り越えていくものなのに、他の人の内なる努力を知ることもせず、表面に映る幸せに嫉妬したり、気にくわぬ人の苦しむ様を見て悦ぶような心を、一瞬なりとも持ったことはないと、言い切れるだろうか?人の人生を左右する程の事でないにしろ、私達も日々の生活の中で、どれ程の悪を造り出しているかもしれないのだ。この心に気付かぬままに時を過ごせば、私達の心は生涯にわたって魔を宿し、やがては戻ることの出来ない地獄の世界へと、転がり落ちることになるだろう。人は皆、み仏の子。悪魔のような心を持つ人は、たとえいようとも、決して悪魔はいないのだ。誘惑多きこの世界で、心強く悪に打ち勝つ信仰を持ち、法華経の行者を生き抜きましょう。我が身の「悪」に負けない心、それが「善」なのであります。
「妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十」に説かれている常不軽菩薩は、威音王如来という仏が亡くなられたあと、像法の時代(教えや修行する者はいるが、悟りを得るものがない時代)にこの世に出て、修行した菩薩です。
常不軽菩薩は、外に出て会う人ごとに合掌し、「私は深くあなた方を敬います。決して軽んじたりいたしません。なぜなら、あなた方すべて皆、菩薩の修行を行って、仏さまになるからです。」と唱え、ただ、ひたすら人々を礼拝しました。拝まれた人の中には、心不浄な人も多く、悪口罵詈し、杖や木で打ち、瓦や石を投げつけ追い払おうとしました。しかし、常不軽菩薩は、身を遠くに避けながらもなお声高く、合掌し、「私はあなた方を敬います。なぜならあなた方は仏さまになるからです。」と唱えて礼拝を止めませんでした。この常不軽菩薩の行動を但行礼拝といいます。
この「但行礼拝」こそ、日蓮大聖人のお題目の受持の精神であります。
宗門では今「但行礼拝」の運動を展開しています。まず、私達一人ひとりが人を敬う心で人と接する事を心がけ、「合掌礼」をもって接し、家庭の中でも「合掌礼」を実践し、地域や社会へ広げて行きましょう。
『この経は甚深微妙にして諸経の中の宝、世に希有なる所なり』
妙法蓮華経提婆達多品第十二
皆さんが今まで生きてこられて『生きるとは?』『人間やその人生とは?』ということについて、考えられたことがあるという方がほとんどだと思います。ですが、その答えはなかなか見つけにくいものです。
日蓮聖人のお言葉に「人身受けがたし、仏法にはあいがたし」
というのがあります。よくよく考えれば、牛馬や鳥や象や虫ではなく、私たちが人の身として生まれたことを不思議に思うことがあります。その生まれがたい人の身に生まれたから、ただちに私たちは「人間」になったというわけではありません。「人間」としての心や生き方を持つことによって、はじめて人は「人間」になれるのです。
人はなぜ生まれてきたのでしょう。それはなぜ生まれてきたのかを知るためです。命の尊さ、出会いの大切さ、苦しみや喜びや恐れや感謝や善悪を知り、真実とは何かを探求するためです。
本来私たちは「生きとし生ける者を哀れみ、助け合うため」に人間に生まれてきたのではないでしょうか?その真実の生き方を示されたのが仏法であり、法華経なのです。法華経によって他を大切にする生き方を学んだ人は、生甲斐を持ち、他から尊敬され、明るい人生を歩むことができるでしょう。
あらゆる生物の中から人間に生まれ、たまたま仏法に会うことはむずかしいことです。たとえ仏法に会えても、この上なく深い教えの法華経に出会うことはもっとむずかしいことです。
それは「この経は甚深微妙にして諸経の中の宝、世に希有なる所なり」(法華経提婆達多品)
といわれているほど、めったに会えない、尊く珍しい宝珠、それが法華経だからです。
私達は今人間に生まれ、法華経に出会い、お経の文字を見聞きして、真実の教えを受けたもつことができました。お釈迦様が私達を救おうとされているお心にふれ、その姿や声を見聞きすることができたのです。もし、尊い生き方の教え=仏法『法華経』を知らないで人生を終えてしまうならば、もったいないと思います。
法華経に出会った「ありがたさ」をかみしめながら、「どうかお釈迦様の説かれた第一のすぐれた教えを信じ習いきわめることができますように」(開経偈の意味)と心から誓願を立て、法華経の正しい教えを理解していくことが大切です。
日蓮聖人は、「仏の御意あらわれて法華経の文字となり、文字は変じてまた仏の御意となる。だから法華経を読む人は単なる文字と思ってはならない。そのまま仏の御意と思わなければいけない」と述べられています。
法華経の功徳は平等です。法華経は平等に救う教えなのです。知恵のある者も、ない者もわけへだてはありません。これまでおかしてきたあらゆる罪をなくし、善い心をおこさせます。また、その心の持ち方一つで、幸せにも・不幸せにも感ずることができます。何事にも感謝して暮らしていけば、人生は明るくなり、人もまたたくさん集まって来るでしょう。
法華経を信じる者も、また法華経をそしる者も、この法華経の限りない功徳に包まれることによって、ともに仏に成る道をなしとげることができるのです。
過去・現在・未来その三世にあらわれたもろもろの仏縁は、いずれも法華経を悟って仏に成られました。日蓮聖人は「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり」といわれました。一切の仏を生み出した深い教えが法華経です。法華経に出会えた喜びを忘れることなく、法華経を読み、御題目を唱えて信仰していきましょう。
総本山身延山久遠寺に昨年九月十、十一日、日蓮宗管長酒井日慈猊下(大本山池上本門寺貫首)をはじめ各本山貫首など、全国から約四百人の宗門関係者が結集し「立正安国・お題目結縁発願大会」が開催されました。佐賀県からは宗務所長、檀信徒協議会長など五名が出席。
昨年四月から実働した「立正安国・お題目結縁運動」は、「敬いの心で安穏な社会づくり、人づくり」を目標に掲げ、檀信徒を担い手の主体とする宗門運動です。その実現に向け、日蓮宗僧侶、檀信徒の「誓いの結集」とするべく、この発願大会が開かれました。
大本堂で営まれた法要は、宗門運動本部長である小松浄慎宗務総長が、発願文の中で『「立正安国・お題目結縁運動」は、但行礼拝を社会運動の基幹となし、立正安国の精神を体現し、国の内外にわたりて広くお題目結縁の輪を及ぼさんとする菩薩の浄業なり。別而、宗内に於いては、宗門再生と次代を担う全宗門人が意識覚醒を図らんとす。是の如き宗門運動の宗旨徹底によりて、祖願たる立正安国の大願を継承しお題目結縁の本誓を顕現せん』と運動推進への決意を力強く宣言されました。佐賀県でも各地区単位で檀信徒研修道場が始まるなど、新しい取り組みが行われています。
日蓮は幼若の者なれども 法華経を弘むれば 釋迦佛の御使ぞかし
『種種御振舞御書』
例えば、あの大きな戦争を体験されて誰もが二十歳まで生きれたことに、まず感謝が出来た昭和二十年代から三十年代にかけての成人式は、どんなにか思い出に残る素晴らしいものであったろうと、不思議なことにテレビで沖縄の荒れた成人式を見ながら、そう思った。愚連隊さながらの男の子達はもとより、恐らく親から買ってもらったのであろう、振袖を台無しにしながら騒ぐ女の子達の悲しい姿を見てどうかこれからの長い人生を通して、二十歳のときに自分がした振舞いを恥じ入る時が来てくれる事を、親の一人として祈る思いである。
私達が、限られた人生を通して学ぶものは、「人の振舞」真の大人の条件とは、自分自身が「未熟」であることをしっかりとわきまえ、その「未熟」を生きながら自身の魂を成長させ、それぞれの立場で社会に貢献していくことを誓うことである。
この誓いは求めて得ざる願い故に、私達は誰もが皆、見事な程に人生を苦しんではいるけれど、だからこそ人間を生きている実感を、私達はこんなにもかみしめることが出来るのです。人は今、まさに「発展途上」を生きている。
「たとえ一人の人であったとしても、たとえ一文一句であったとしても、法華経を説く者は、釋尊の使いである。」(法華経法師品)
この法華経のみ教えをそのままに、日蓮大聖人は、たとえ幼若=未熟の我が身=であっても人にはやらねばならないことがある。釋尊の使いとして、今を生きる私達の行いが、そのまま法華経を弘めることになる事をお示し下されたのです。
人は誰も、「求めて得ざる苦しみ」を背負って生きる、生身の佛。誰かの為に尽くしたいと願う心は、そんな発展途上の佛が見せる、人としてのいちばん美しい魂の表現方法、お釋迦様の使いであることの証なのであります。祈って(願い)悟って(気付き)行って(弘める)人の為、我が身の為に日々精進して参りましょう。
今回は、皆様も何度も読まれたことのある『運想』について解説したいと思います。
これは、方便品や自我偈といったお経文ではなく、また、日蓮大聖人がのこされた御遺文でもありません。
『運想』(想いを運す)は、江戸時代末期、金沢に「充洽園」という塾を興して近代日蓮宗の教学(教え)を確立し、日蓮教団の再興に貢献された「優陀那院日輝上人」という方が説かれた、お題目の想いにひたることを目的とした指南書(手引書)で、お題目や法華経を読む功徳について述べてあります。つまり、お題目をお唱えすることはお釈迦様の説かれた法華経に想いをめぐらし、お釈迦様の御心を頂戴することでありますが、何度もお唱えするうちに単調になりがちなものです。そこでこの『運想』の文を、お題目をお唱えする前にあらかじめ唱えて、お題目に集中することが重要であるということを述べられております。
「唱え奉る妙法は、是れ三世諸仏所証の境界、上行薩藉霊山別付の真浄大法なり。」
お唱えする「南無妙法蓮華経」のお題目は、過去・現在・未来の三世にわたるすべての仏様が悟りに到達された境地をあらわすもので、教主であるお釈迦様が弟子である上行菩薩に命じて、末法の世でこの教えを弘めるよう特別に委嘱されたとても清らかなすばらしい大いなる教えなのです。
「一度も南無妙法蓮華経と唱え奉れば、則ち事の一念三千正観成就し、常寂光土現前し、無作三身の覚体顕れ、我等行者一切衆生と同じく、法性の土に居して自受法楽せん」
だから、「南無妙法蓮華経」とお題目を一度でもお唱えしたならば、たちまちにお釈迦様の尊い救いの教えを正しく理解し体得することができますし、その眼の前にお釈迦様の悟りの世界を確かめることができ、そのお姿が現れその本体が明らかとなります。私達法華経の教えを一心に修行する者は、すべての人々と一体となり、その悟りの世界にあって、自らがその悟りを味わい楽しむ境地を得られるでしょう。
「此の法音を運らして法界に充満し、三宝に供養し、普く衆生に施し、大乗一実の境界に入らしめ、仏土を厳浄し、衆生を利益せん。」
この「南無妙法蓮華経」の唱題の声を周りに響かせて全世界に満ちあふれさせ、仏(お釈迦様)・法(法華経)・僧(お釈迦様の弟子・その教団)の三宝に供養を捧げ、すべての人々にその功徳を施して、お釈迦様が説かれた大いなる教えの境地に導き、さらにはこの世界をおごそかで汚れない清浄な地にし、すべての人たちにこの教えの救いをもたらしましょう。
以上が本文の解説です。
先師が残されたこの教えを胸に、お題目修行に励み、その功徳が世界中に弘まりますよう日々精進して参りましょう。
昨今、再び親殺し、子殺し等の事件が多発しています。普通の家庭の「良い子」といわれていた子供が、ある日突如として親や兄弟あるいは祖父母を殺傷して、しかも家に火を付け行方をくらまし数日後に発見保護される事件でした。
周囲の人達には大変仲が良い家庭、家族思いの「良い子」と映っていました。原因として考えられるのは親子間の些細な心の行き違いです。縁あってこの世で親となり子となり、兄弟となったのです、また人は一人で生きているのではありません、世の中全ての人々と関わって生きているのです。今一度「私」と人々との繋がりを考える必要があるのではないでしょうか。
宗祖は「立正安国論」の中に正法が聞けない世の中では、瞋り(いかり)・貪り(むさぼり)・痴か(おろか)・闘い(たたかい)の四つの悪い精神ばかりが増して善心は減り衰え、人々は生死の迷いの河、すなわち無明と苦悩の世界へ落ちるとされています。
日本の政治の中枢に間違った法を信じる人達が関わっています、今こそ正しい法を信じ「仏の国」とせねばなりません。
今身より仏身に至るまで爾前の殺生罪を捨てて法華寿量品の久遠の不殺生戒を持つや否や持つと三辺。「本門戒體鈔」
小食の子供に母親が「残さないでもっと沢山食べないと、大きくなれないわよ。」と怒っている。私が子供の頃には「お前まだ食べるのか?」とあきれられたものだが、と苦笑してしまう。私達は普段せっかく自分の身を犠牲にしてまで、私達の糧となってくれた動物や植物に、感謝の気持ちを忘れている。他の生きとし生ける者は皆、殺した「いのち」を生かしているのに人間だけが「殺す」のである。
私達にとって「いのち」とは、何よりもかけがいのない大切なもの。けれども、自分にとって大切なものが、他のとってもかけがえのないものだということを、私達は忘れてしまっている。私利私欲の為だけに、他人を傷つけたり、殺したり、苦しめたりする人は、それがかえって自分自身の「いのち」を殺していることにどうして気付かないのでしょう。
例えば、同じ食糧であっても、家族や社会の為に役立とうと、精進する人の糧となる「いのち」は、幸せだ。何故なら、きっとその「いのち」は、それぞれに与えられた環境の中でみ仏の用(=はたらき)を顕すその人達の「いのち」に同化して久遠の生命を生きる(=成仏)からだ。しかし、人道にもとる行いをする者に食された「いのち」は、苦しみながらその者の栄養となり、三悪(地獄・餓鬼・畜生)を生きねばならないのだ。数限りない関わりあいとお蔭の中で数限りない「いのち」を戴いて生きる私達だからこそ「いのち」を継いで生きている有難さと、生かされる「いのち」の尊さと、その使命の重大さとを何よりも認識しなければならないはずです。食べ物を大切にするというのは「いのち」を大切にするというのは、そういうことであります。
大聖人様がお示しくださった「久遠の不殺生戒」とは、み仏から頂戴した自分自身の「いのち」を決して無駄にしないことなのであります。
昨年十一月、高橋尚子選手が出場した東京国際女子マラソンが行われました。二年前のこの大会で二位となった彼女、それから二年間私たちに伝えられる情報は、何一つ高橋選手を後押しするものはありませんでした。二年前に止まった彼女自身の時間を進めるために敢えて難コース東京を選んで臨んだレース。二日前のふくらはぎ肉離れの会見を聞き、「いつ後退していくのか」「いつ止めてしまうのか」そう云う思いで中継を見ずにはいられませんでした。
ところが三五・七キロ地点、圧倒的な力の違いを見せつけるスパートで一気に抜け出し、文字通り風のようにゴールを駆け抜けました。
「今、暗闇の中で悩んでいる人、夢をあきらめないで。夢を持つことで充実した日々を送ることが出来る。一日だけの目標でもいい。夢があれば必ず光はみえてくる。」二年間止まっていた時間を、自らの力で再び刻み始めさせた彼女のレース後の言葉は心に響いた。
『菩提心をおこす人証多けれども、退せずして実の道に入る人は少なし』日蓮聖人、松野殿御返事にてのお言葉です。
衆生無辺誓願度 煩悩無数誓願断
法門無尽誓願知 仏道無上誓願成
今回は、皆様もよくご存知であります『四誓(しせい)』についてご説明したいと思います。
正式には『四弘誓願(しぐせいがん)』と言い、四弘(しぐ)・四弘誓(しぐせい)などとも称します。
日蓮宗だけではなく他宗にも共通しますが、各宗派によって字句に若干違う部分があります。ちなみに真言宗では、
衆生無辺誓願度 福智無辺誓願集
法門無辺誓願学 如来無辺誓願事
無上菩提誓願成
と五句唱えるところもございます。
日蓮宗では、法要、朝・夕のお勤めなど勤行の「回向」の次にこの文をお唱えする事になっており、この文をお唱えした後には必ずお題目を三唱するのがきまりとなっております。
『四弘誓願』とは、仏様の世界へ一歩でも近づく為の四つの誓いの言葉で、弘はあらゆる願いの広く大きいこと、誓は自らの心に堅く誓うこと、願は修行の満足を求めることを意味しております。
ではこの四句を簡単にご説明したいと思います。
衆生無辺誓願度《衆生の無辺なるを度せんと誓願せん》
苦悩にあえいでいる限りなく多くの衆生を救おうと誓い願います
煩悩無数誓願断《煩悩の無数なるを断ぜんと誓願せん》
数え尽くせないほど沢山の、人間を悩ます欲望をとどめさせようと誓い願います(煩悩は無くせないので抑えるべきものである)
法門無尽誓願知《法門の無尽なるを知らんと誓願せん》
修めても尽きることのない仏様の教えを修得しようと誓い願います
仏道無上誓願成《仏道の無上なるを成ぜんと誓願せん》
この上なくすぐれている仏様の悟りに至る道を成し遂げようと誓い願います
以上が『四誓』の説明ですが、日蓮大聖人は『小乗大乗分別抄』というご遺文で第一句を特に強調されております。これは、この句がどの宗旨にも共通するもので、命あるものすべてを救おうとする大乗仏教に共通した根本の本願であるからです。そして、この第一句は菩薩としての行の始まりであり、この誓願が満足することによって他の三句も成就するのであると日蓮大聖人はおっしゃっています。
私達もこの大聖人の思いを胸に『四誓』をお唱えし、お釈迦様の大いなる慈悲と救済を確かめ、少しでも仏様の悟りに近づきたいとの願いを込めて、法華経・お題目修行に励んで参りましょう。
宗門運動(平成十七年度〜平成三十四年度)『立正安国・お題目結縁運動』について
皆様のお寺に新宗門運動のポスターが掲示されていると思います。この立正安国・お題目結縁運動とは何なのか、一目では難解な言葉に感じる事と思います。
今、NHKテレビで放映されている『義経』兄の頼朝が開いた鎌倉幕府、宗祖日蓮大聖人が活躍された時代です。大聖人は立教開宗ののち清澄寺から鎌倉の松葉谷に庵を結び布教伝道の日々を送っておられました。この時大地震・台風・伝染病とたて続けに大災害が襲い、国中の人々が恐怖にさらされました。大聖人は仏教の国である日本で何故この様な混乱が起きるのか、一切経(お釈迦様が説かれた全ての教え)を調べ原因を究明されました。
その結果、この国には釈尊の教えである法華経が取り入れられていないのが原因であるとの結論に達せられました。是を『立正安国論』にまとめられて鎌倉幕府に奏進されました。時に、文応元年七月十八日(一二六〇)のことでした。来る平成二十一年は安国論奏進七五〇年をまた、平成三十三年には大聖人ご生誕八〇〇年の慶事を迎えます。そこで現代の世の中に大聖人が示された立正安国の御心を伝えることを目標としてこの運動が決められました。
岩間湛正宗務総長はこの運動達成のために五つの基本目標を掲げられました。
第一は『お題目こそ成仏の種』
私達の人生の目的は、仏様によって心の奥底に植えられた仏の種をお題目によって育てて実らせる事です。
第二は『人を育てる、人こそが法の担い手』
立派な教えがあってもそれを伝える人と、受け取る人が居なければなりません。良き教師(僧侶)と檀信徒が一体となって修行に励み、未来に教えを伝えなくてはなりません。
第三は『心の平和、社会の平和、世界の平和』
家庭でお題目を唱える功徳により必ず健やかな心、幸せな家庭を築くことが出来ます。このことが社会の平和、世界の平和への基礎となるのです。
第四は『現代社会の諸問題への対応』
現代社会の物質文明は行き詰まり、終焉に向かっています。その結果環境汚染や飢餓・病気等の問題により世界の人々のいのちはおびやかされています。
大曼陀羅ご本尊に示されたお題目の光明によって、あまねく世界を照らすように様々な問題に対処しなければなりません。
第五は『世界の仏教徒と共に』
宗教が戦争やテロの原因になっている現状です、私達は世界の仏教徒と手を取り合い、他宗教の人々との対話を通して平和の基礎を造って行かねばなりません。
以上、五つの基本目標をお伝えしましたが、結縁とは仏縁を結ぶことです、大聖人は「下種結縁」と示されています。これはお釈迦様が法華経を説いて、人々の心に成仏に必要な種を植え付け、仏となる縁を与えることです。つまり大聖人が弘められたお題目を唱えることを下種結縁と言います。朝夕の勤行等によって、私達の心田に植えられたお題目の種を育て、成仏という豊かな実りを得たいものです。そしてこの豊かな実りを多くの人々に伝えることによって、一粒の種が多くの実りとなり、大聖人の目指された立正安国の実現に近づくのです。
人の寿命は無常也。出る気は入る気を待事なし。
《妙法尼御前ご返事》
我々人類は、息を吐いて次の空気を吸わなければ、どんなに健康な人でも三分ともたずに酸欠で死んでしまいます。又、次の日の朝、必ず目が覚めるといった保障はどこにもありません。無意識のうちに我々は、寝ている間も休みなく呼吸を繰り返しています。では、私達は一日にどのくらいの空気を吸っているのでしょうか。ある大学の教授の計算では、普通の人が一日の生活で、およそドラム缶五七本半もの空気をただで吸い続けているそうです。しかし、ただであるが故に我々は、この空気の有り難さに気付いていないはずです。もし空気が無くなったとしたら、我々はこの地球上で生きていく事は出来ません。さらには、他のたくさんの「命」を頂いて我々は生かされているのです。
では、皆さんはこの生かされている自分の「命」について考えた事はあるでしょうか。「命」とは不思議なもので、我々人間はもちろん、どんなに小さな動植物にいたるまで色々な「命」かありますが、その「命」に大小の差は無く、色や形もありません。しかし、全ての「命」には必ず最後があります。そうです、いづれは確実に死が訪れます。しかし、仏さまは『生と死は一緒である』と教えられています。それは私達のご先祖様の「命」、お釈迦様の「命」を預かっているからです。
歳を重ねますと男性の方はだんだんと父親に似てきますし、女性も母親に似てきます。これこそ「命」を受け継いでいるということではないでしょうか。
仏さま・ご先祖様から受け継いだ大切な「命」を粗末にしてはなりません。この大事な「命」を大切にする方法は、報恩感謝の心を常に心身に保つことです。
親やご先祖様を思い、それを態度であらわすこと。すなわち、仏さまの教えである法華経を読誦し、日蓮大聖人がお唱えになった南無妙法蓮華経を唱え、心から感謝する気持ちを保つ、それが一番大切なのです。
お題目を唱え、悔いの無い毎日を過し、それを子孫に伝えていくことこそが私達の大事な役目では無いでしょうか。
無上甚深微妙の法は。〜中略〜
生々世々。値遇し頂戴せん。
読経(お経を読む)の前に唱える偈文を開経偈といいます。はじめの四行はほとんどの宗派で用いられていますが、日蓮宗以外では四行目を「如来の真実義を解せん」と唱えます。日蓮宗では、究極の経典「法華経」によって誰もがさとりを得られること、この教えにめぐりあえたことに感謝し、いくたび生まれ変わっても、この教えを受持することを誓うというお経です。
この開経偈の文は、『このうえもなくすぐれた仏様の教えは、百千万劫という永遠の時を経てもめぐりあうことは難しい。しかし、私は今幸いにしてその教えを聞き、乗直に信じる事ができました。どうかこれからも修行して、仏さまの無上の教えを体得したいと心から願っています。
仏法の極まりである大乗の教えは、我々凡夫には考えもおよばないものです。しかし、見ること、聞くこと、感じること、知ること、そのすべてを通じて、菩薩(さとりの智慧)に近づくことができます。その教えの内容を明らかにしてくれるのが、報身(お釈迦様)であり、つまりは法身(真理そのもの)であり、そして色や形として肉眼でみることができる「法華経」の一文字一文字、これがすなわち応身(仏の化身)なのです。はかり知れない功徳がすべて、「法華経」に集約されているのです。だから、なんの障害もなく、暗闇に香るように秘かに恩恵を与えてくれます。智恵のある者にもない者にも罪を消滅させ、善を生じます。信じる者も、誹謗する者も、ともに悟りの道を成就するでしょう。過去・現在・未来にわたる仏様方によるすぐれた経典なのです。生まれ変わり死に変わりして多くの世を経ても、めぐりあい、受持いたします。』という、ほとんどの皆様がお経が始まる前に、お読みになる経文であります。
私たちは、報身(祈り)、法身(悟り)、応身(行い)というこの日蓮宗の三大誓願を受持し、法華経の教えの通り歩み、自分自身が仏の化身である事に気付かねばならないという事であります。今まで以上に法華経に接し、仏の子として共に精進して参りましょう。
人身はうけがたし爪の上の土。人身は持ちがたし草の上の露。
〜乃至〜
蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。
此御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給べし。
崇峻天皇御書
このお言葉は日蓮大聖人五十六歳、建治三年(一二七七)九月十一日、身延より信者である四条金吾氏に出されたお手紙の一説で、四条氏よりたくさんのご供養を頂いたことに対するお礼状でもあり、お題目による救いを説かれた日蓮大聖人のお言葉の一つです。
二十一世紀を生きようとする我々人類に欠くことができないのは、慈しみに生かされる心の豊かさではないでしょうか。我々の生きている今日、科学技術は核兵器をはじめとする軍備の問題・ハイテク産業による情報工業化、さらには生命科学の分野における遺伝子研究・クローン生物の誕生など、想像をもつかない恐ろしいばかりの発展をみせています。
しかし、これらの科学技術を研究開発し、使用するのは人間の心にあると考えるとき、常に生命の倫理を第一に考えなければなりません。この世に生を受けているものはお互いに繋がり合っている大切な「いのち」の尊厳を、慈しみの心で見つめる視点を失ったならば、人類そのものを破滅へと導くことになりかねません。また、"人類は平和を願う"と口にし、"生命の大切さ"を叫びながら不幸な戦いを繰り返しています。現に今起っているイラクでの自爆テロなどは皆さんもご存知のはずです。そして、昨今では自らの命を絶つものが増加の一途をたどるばかりです。せっかくこの世にいただいた有り難いこの命を、まるでテレビゲームのリセットボタンを押すように簡単に死を選び、安易に他人を傷つける者が激増しています。まさに心の豊かさが失われている証拠であります。
限りある私たちの尊い命。信仰を糧とする心の豊かさ。それを大切に思う生活を送ろうではありませんか。心の財の尊さを知ることのできる人生であれば、必ず身の財・蔵の財がそなわるはずです。
日蓮大聖人からいただいた大きな財・お題目に合掌し、お唱えする縁をたくさんいただけますよう、日々精進して参りましょう。
前号において「此経難持(妙法蓮華経見宝塔品第十一)」の中で最も大切な「六難九易」について説明致しました。この六難九易の文を体得した日蓮大聖人は末法における法華経弘通の唱導師であることを表明され、大聖人の死身弘法・法華色読の弘教活動を支えた経文であります。日蓮大聖人は人々を救うため困難を覚悟の上でこの法華経を弘められたのです。
ところで「此経難持」の唱え方について疑間をお持ちになった事はございませんか?
日蓮大聖人が伊豆へ流罪になられた時のお話です。配流される日蓮大聖人を乗せた船が出港しようとした時、弟子の一人日朗上人が役人に同行を求めました。役人は日朗上人の申し出を拒絶するだけでなく、擢で上人を打ち据えたのです。痛みに砂浜でうずくまる日朗上人を残し日蓮大聖人を乗せた船は岸を遠ざかって行きます。その時日朗上人の耳に大聖人の「宝塔偈」を唱える声が聞こえてきました。日蓮大聖人の声は波に遙られ、時には詰まり、時には伸びて聞こえてきます。御自身がどうなるかもしれない特に悲痛な面持ちで見送る弟子達に「宝塔偈」を唱え励まされたのです。弟子達もまたその声に合わせ「宝塔偈」を唱えられたと言われています。この事に由来し、現在でも「宝塔偈」を独特のリズムでお唱えするものです。
宝塔偈では、しっかりとした信念を持って法華経を持つ人がいるならば、仏天がその精進に対し喜び、その人々をお守り下さると結ばれています。
法華経の一文一句、一心に経文の意味をかみしめ、日々の仏道修行に精進致しましょう。
七月に長崎でおきた十二歳少年による殺人事件、その少年の児童自立支援施設送致が決まりました。私事で恐縮ですが事件の後、近所の小学校から《生命の貴さ》について話をして欲しいとの依頼がありました。
「ご先祖様からずっと受け継がれた命のバトン、今僕がここに生まれて生きているのは奇跡的なことなんだなあと思いました。」話を聞いた五年生の男の子の感想です。奇跡的に授かった命をどう生きなければならないのか、それを子供たちに伝えていくのは私たち大人の務めです。
「人身は受け難し爪の上の土、人身は持ち難し草の上の露、…蔵の財より身の財、身の財より心の財が第一なり」
日蓮聖人崇峻天皇御書でのお言葉です。
「シキョウナンジ─」、お題目の後に独特の節でお唱えするこのお経は、俗に「此経難持」とか「難持経」等と呼ばれ、盛んに読まれています。実はこのお経、法華経第十一番目のお経「見宝塔品」の最後に説かれている偈文(詩句)であることから、「宝塔偈」と言います。このお経「見宝塔品」には、お釈迦様が亡くなられた後、我々弟子たちがこの法華経を信じ弘めていくうえでの六つの難しいことと、九つの易しいことが対比されて説かれています。又、九つの易しいことも必ずしも易しいことではなく、普通では大変難しいものとされていますが、お釈迦様滅後法華経を持ち弘めることに比べれば易しいことであるとされています。
即ち六難とは、
以上の六つが六難で、九易とは、
以上が九易です。このように法華経を持ち弘めることの難しさが説かれています。それでは、「宝塔偈」のお経文をおって解説致します。
【此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我則ち歓喜す 諸仏も亦然なり】
この法華経を信仰して持ち続けて、実行するのは容易なことではありません。だから、もししばらくでも受持するものがあれば、我(お釈迦様)は非常に喜びます。亦、全ての仏さまも皆喜ばれることでしょう。それは、お釈迦様の教えを信じることで、全ての仏の教えを信じることになるからです。つまり、法華経を信じ持つことは、堅い信心が無くてはできないのです。この信心こそが、全ての人々を救済することにつながっていくことになります。
【是の如き人は 諸仏の歎めたもう所なり 是則ち勇猛なり 是則ち精進なり 是を戒を持ち 頭陀を行ずる者と名づく】
このように法華経を持つ人は仏さまがほめ讃えるほど尊い人であり、これこそどんな困難にも打ち勝つ、勇気のある人であり、その道に向かって真っ直ぐに進んで行く精進の人であります。戒とは仏さまの教え、即ち法華経でありお題目のことで、頭陀とは全ての物質的欲望のことであります。その欲望を捨て法華経を信じ、お題目を一心にお唱えすることこそ真の仏道の修行であるといえるのです。
【則ち為れ疾く 無上の仏道を得たり 能く来世に於いて 此の経を読み持たんは 是れ真の仏子 淳善の地に往するなり】
このような善い行いを続けて行けば、無上の仏道即ち仏に成る道が得られるのです。未来の末法の世にこの法華経を信仰し実践する人こそ真の仏さまの弟子・子供であり、雑じり無いすばらしい境地に至り住することが出来るのです。
【仏滅度の後に 能く其の義を解せんは 是れ諸の天・人 世間の眼なり 恐畏の世に於いて 能く須臾も説かんは 一切の天・人 皆供養すべし】
仏滅後の末法の世に、法華経の真の意味を理解して体得するならば、これこそ天上界・人間界世間全ての目標となるでしょう。恐ろしい末法の世でありますから、正しい教えを弘めようとすると、それを邪魔しようとする者が出てきます。しかし、しっかりとした信念を持って法華経を説く人がいるならば、天も人もその努力に感謝してその人々をお守り下さるでしょう。
以上が『宝塔偈』の説明です。私達は素直な心で法華経を持ち、お題目唱題の正行に励むことが肝要であり、そこにお釈迦様をはじめ、諸仏諸菩薩のご守護が現前するのです。
アメリカとイラクの戦争は、圧倒的軍事力の差でアメリカの勝利におわりました。無政府状態になったイラクでは、博物館から「目には目を歯には歯を」の言葉で知られるハムラビ法典が略奪に遭いました。アメリカもイラクもこの、やられたらやり返せ主義で戦争をして悲惨な結果をもたらしたのです。決してこの考え方で平和は訪れません。今こそ法華経で説かれる常不軽菩薩の「旦行礼拝」の精神が必要不可欠であります。危害が与えられようがひたすらに相手を拝む。その敬虔な姿で相手を導いていく。絶対的な非暴力が仏様の本意であります。今日本は、有事法制整備に力を入れてどうも仏の本意に背く方向へ進んでいるようです。五十八年前の教訓は、今どこへ。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。
《如来滅後五五百歳始観心本尊抄》
このお言葉は日蓮大聖人五十二歳の文永十年(一二七三)四月、佐渡配流中、一の谷で著述された觀心本尊抄の一節で、大聖人が延長五年(一二五三)の四月より三十年間唱えられ、弘められた南無妙法蓮華経の御題目とは何であるかを説かれたものです。
「お釈迦様が仏となるまでの修行のすべてと、お悟りを開かれて以後(仏となられた後)のお釈迦様の功徳のすべてが妙法蓮華経の五字のなかに説き顕わされており、私達でも妙法蓮華経の五字を堅く信じて、その気持ちを強く持ち続け、一心にお唱えするならば、自然とお釈迦様が仏となられるために御修行された功徳と、お悟りの功徳その全てを譲り与えられるのであり、教主釈尊の広大無辺なる慈悲救済をいただくことにほかならないのである」と述べられております。
お釈迦様は、遥か遠い昔に長い修行によって悟られた真理を法華経に説き顕わされました。
すなわち、『如来寿量品』において末法(正しい教えや行動がすたれて世の中に混乱と退廃が起こる時代)の人々を救うためには、この妙法蓮華経の教えが必要であるとして「是の好き良薬を今留め此に在く」といわれ、『如来神力品』で上行・無辺行・浄行・安立行の本化の四菩薩たちを呼び出され、末法の世の人々を救済するために妙法蓮華経(法華経)の教えを世に弘めることを、命じられたのでした。
つまり、妙法蓮華経の題目とは単に法華経というお経の名前であるだけでなく、仏の悟りのすべてを表す名であり、仏の悟りの本体である智慧と仏の修行と悟りと、仏が人々をを救済する働きとを含んでいるのであります。我々はこのお釈迦様の尊い御教えを我が身となし、大聖人と共にお題目の修行を実践しなければならないのです。
世に「子を持って初めて知る親の恩」と言います。法華経は、その真理の形や信仰のあり方を親子のたとえ話でしばしば説かれています。
「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」
とお釈迦様は説かれ、日蓮聖人は、「一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし」
と答えられました。
お釈迦様や、日蓮聖人は、私達が考え得る親心以上の親心で私達を心配して下さっています。
我が子を思う同じ心で親孝行をし、報恩感謝の心で掌を合わせましょう。
起塔供養 所以者何
「塔を起して供養すべし」 「ゆえはいかん」
當知是處 即是道場
「当に知るべしこの処は」 「即ちこれ道場なり」
《如来神力品第二十一》
「私の家にはまだ故人がいないので仏壇は要りません」「私は分家だからいいんですよ」「家が狭くて仏壇なんか置く所がない」等々良く耳にしますが、果たして仏壇とは何なのでしょうか。
仏壇とは崇敬の仏像。曼荼羅本尊及び宗祖御像並に先祖の位牌・過去帳を案じ五供(香・華・灯・浄水・茶・飯食)を供え、朝夕礼拝供養し報恩感謝の誠を捧げる壇のことで、亡くなった人を祀る為だけにあるのではありません。
第一に御本尊を中心に祀り、そこが修行の道場になるということです。また先祖というものは本家だけが関係があるのでなく、私達がこの世に生をうけているのは先祖あってのことですので、分家であろうと大切に祀ることが大切です。
しかし現実には家族の誰かが亡くなって初めて仏壇を求める人が多いようですし死別という悲しみを縁として、仏様の教えに出会うことができるのも事実のようです。
この神力品の句は、どこであろうと塔(本尊)を起てて供養すれば、自分が居る処は大切な道場であり、霊山浄土と同じである。つまり法華経を信じ、お題目を唱える処はどこでも道場となる。お釈迦様、日蓮大聖人と同じ心で修行し信仰すればどこでも、生活の場もそのまま道場であり、霊山浄土になるわけです。
例えば鍬で耕している田畑が、機械を操作する工場が、パソコンに向き合う事務所が、そして炊事・洗濯・掃除に明け暮れる家庭がそのまま道場になるのです。
皆さんの心の内に題目の宝塔を起ててお釈迦様、日蓮大聖人、先祖に手を合わせる場(即是道場)、家庭の中心として仏壇を活用し、自分の魂を磨く場、先祖供養の為にもこの神力品の持つ意味をかみしめて、心を磨こうではありませんか。
上野殿御返事
「或は火の如く信ずる人もあり、或は水の如く信ずる人もあり。火の如くと申すは、聴聞する時は燃えたつばかり思へども、遠ざかりぬれば捨る心あり。水の如くと申すは、いつも退せず信ずるなり。」
信仰をする人の中には、火のように信じる人もあれば、水のように信じる人もあります。火のように信じるとは、説法を聴聞する時は大いに感激して燃えたつばかりに思いますが、時がたつにつれ、信仰が薄れてしまう一時の信心をいいます。水のように信じるとは、河の水が常に流れているように、いつも退転せず永々と信じ続ける信心をいうのであります。
大聖人のお仰せになる水の信仰とは、ただ怠らず続けて精進していくという事だけの教えでなく、お題目の教えをしっかりと身につけて信じて疑いなくお唱えしていく事を仰せになっておられます。
今は、ご利益信仰が流行しております。そのご利益のみを求めるが為に、自分の意に叶わぬ結果になってしまえば今の信仰が駄目だと思い又別の信仰に変えてしまう。この様な事では、本当の信心とは言えません。
例え求めぬ結果となり苦しむ事になりましても、お題目をお唱えする私達は、その苦しみは、自分を成長させる為の仏様から与えて頂いた試練として受け止め、退転する事なく、逆に感謝の心を持ってお題目をお唱えする事が大事であります。
本年は、日蓮大聖人が初めてお題目をお唱えになられて七五〇年になります。一口に七五〇年と申しましても、その長さを具体的に想像できますでしょうか。
また、「始める事」や「止める事」は、「続ける事」に比べれば簡単な事と思います。日蓮大聖人は御年三十二歳で初めて「南無妙法蓮華経」とお唱えになられて、生涯唱え続けられ自ら水の信仰を我々にお示し下さいました。
そして、そのお題目は、七五〇年もの間、受け継がれて、今でも唱え続けられています。
七五〇年間、大河の如く流れ続けた日蓮大聖人のみ教えそして、お題目を次の代に伝えるのが我々の努めであると思います。
天諸童子以為給使
刀杖不加毒不能害
《安楽行品第十四》
法華経安楽行品第十四の中のことばです。真に法華経を世に弘めるものはどんな艱難に値っても、必ず天がこれを護るということです。
天の童子が法華経を弘める人を給仕し、介抱せしめます。そうして武器を持ってこれを害そうとしてもその武器が役に立たない。刀杖も加えることができない。あるいはまた毒をもってこれを害そうとしても、これを害することはできないと説かれています。
日蓮大聖人は命がけで法華経を信仰されました。
普通、我々の信仰の仕方といいますと、大概自分の行いは悪いが浄土にやってくれとか、楽をして金が儲かりますように願う。あるいは自分ほど信仰するものはいないがくだらないことですぐ怒る等、行動を伴わない欲望だけの信心、信仰ということも多いようです。
又、逆に「仕事が忙しくて信仰する暇がない」?というような事を聞いたことがあるのですが、信仰とは寺の本堂や仏壇の前で経を読んだり題目を唱えたりすることだけだと考えておられるのでしょうか。
もちろんそのことは信仰活動の大切な行いなのですが、本来信仰とは日常の生活を離れては在りえないのです。例えば仕事をしている時も、食事をしている時も、歩いたり車を運転していても寝ていても仏の心でいる。
日蓮大聖人が、弟子の日朗上人にあてた手紙の一節に「法華経を余人のよみ候は、□ばかりことばばかりはよめども心によまず、心によめども身によまず」(土籠御書)と書かれておられます。
ご本尊である久遠の本師お釈迦様、その教え(題目)を信じ、生活行動する、生きているうちに仏の心を持ち、自らの命は惜しまず命がけの法華経の生活をされたのが日蓮大聖人です。
その為、龍の口の法難で奇跡的に救われたのは、天の助けがあり雷が刀に落ちたからだといわれています。
世界が宗教対立している今、上辺だけでない法華経に立脚したしっかりとした信仰的考え、行動が日蓮大聖人に一歩でも近づく事であり、大聖人の「立正安国」を目指し精進してゆかなくてはなりません。
汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。
《立正安國論》
このお言葉は日蓮大聖人三十九歳の時、時の政治的な権力者である前執権の北条時頼(最明寺入道)に献呈された「立正安國論」の結論の部分です。
日蓮大聖人は一生涯にわたり立正安國論を講義、そして実践されました。お題目を信じ、唱へ、行う事により世界の浄化、つまり立正安國の誓願の人生でした。
天災が続き、内乱、元寇の恐れ等と人々の心は疲れはてている時、その宗教的な心の建て直しをしなくては真の解決方法はありません。
例えば現在も、世の中の反映と考えられる成人式、近年特に顕著に見られる多くの人を悲しませるような行為。宗教を忘れた悪知恵に毒された自由主義、民主主義等と、物で栄えて心から滅ぶ、希望が無く真の喜びが感じられないといわれてもしかたない現状です。
その宗教も逆にカルト、オウムの無差別テロ、霊感商法等逆に不安心を煽り、問題化しています。
又佛様を自分の奴隷のように、意のままにしようとすることはないでしょうか。信仰(命令?)したら直接個人の欲望を満たす、つまり貧乏、家庭不和、病気やたたり等から救われる。有難い、ご利益がある、お供えしよう、取引しよう…
日蓮大聖人は本当の仕合せを求め行動され、世の中の乱れは、お釈迦さまの本心、法華経が正しく伝わっていないからだと考えられました。そこには生老病死に代表される四苦八苦の世で、いかに生きるべきかが説いてあり、死後はどうなるとか、霊魂のたたり等迷わす事は一切説いてありません。
そこから分かるのは、今まではせいぜい世俗的な名誉とか財産を得る、個人の欲望の成就等(信仰の寸心)だけが人生の最高、最終目的であったのに対し、より尊いこと(実乗の一善、法華経)があるのです。お釈迦さま、その教え(題目)を信じ、一体化し、行動することです。今世の浄化(立正安國)が過去世、来世にもつながり真の救い、喜びがあります。
かつて法華経、日蓮大聖人の信者宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」と述べましたが、まさに立正安国の誓願から導かれています。
昨今は「荒れる十代」と言われていますが、日本の戦後教育に本当に問題はなかったのでしょうか。
「教育の三原則」というものがありますが、即ち「体育、智育、徳育」の三つを指します。戦後日本は、物を造る事に全身全霊をかたむけ経済大国を目標に突き進んで来ましたが、人間の教育に於きましては「体育」「智育」には力を入れてきたものの、最も大事な心作りであります「徳育」を忘れてきてしまいました。
想像を絶する少年犯罪が多発している今日、私達は、「物造り」でなく「人間(心)作り」を真剣に考えないと、本当の豊かな社会は遠い先の事になってしまいます。
このきょうはたもちがたし もししばらくもたもつものは
此経難持 若暫持者
われすなわちかんぎす しょぶつもまたしかなり
我即歓喜 諸佛亦然
「お上人さん、これはおれが食べる為に作ったものだから虫が付いているんだ。薬かけるのが少ない証拠だからさあ。そのかわり安心野菜というわけさ。スーパー、学校等に出しているものは見た目の成りが良いものだけで、虫など付いてたら置いてくれないし、お客が買わないんだ。その為薬など必要以上にたくさんかけなければならないんだ。作ったおれは喰う気はしない。」
といって畑仕事が終わった農家の人が虫喰い茄子を某寺の本堂のご本尊、日蓮大聖人にお供えしていかれたそうです。
虫が付かないように、見た目が良いように、又おいしさ等の為か農作物等には必要以上に大量の薬、放射能等が使用されると聞きます。
そこで思い出されるのが、某動物園の猿です。約十年程前のことですが、本来の自然のままの食ではないスナック菓子などだけで育てていたら、奇形児が異常に増えたので、それをやめたという新聞記事をどう考えたらよいでしょうか。
見た目のきれいさ、おいしさ等上辺だけで品定めをする消費者がいらっしゃればこのことをどう考えられるでしょうか。
そこでそのことに重要な役目をはたすはずの宗教も、上辺だけのインチキ宗教ではなく、本物が求められなければなりません。遂に宗教そのものがカルト宗教に代表されるように問題になっています。
病気が治る等それだけ、目先のことだけで説き終わるような宗教。耳ざわりが良く甘言で引き付けるような安易な事だけを中心に布教するような宗教に魅力を感じる人が多いようです。
この経文は法華経見宝塔品第十一のなかの宝塔偈の出だしで、法要では唱題の後に唱えます。
お釈迦さま、法華経、日蓮大聖人の教え、そしてその誓願は「立正安国」です。その為には南無妙法蓮華経(佛の心)を口先だけでなく、身口意の三業にみんなが受持しなければなりません。
そのことは本来簡単なことではないのです。生老病死の四苦に代表されるこの世界で本当の幸せを求め、実現するというのは非常に難しい事なのでお釈迦さまはこのように説かれたのではないでしょうか。
最近また理解ができない宗教団体が様々な問題を起こしている。教祖を絶対的な存在とし、世間の常識が通じない「定説」とか「天の声」など教祖だけが啓示を受けて指示をし、それを信じて思い込み行動をする。その結果として社会の人々といろいろな争いや軋轢を生じさせてマスコミの恰好の材料となっている。
信仰は麻薬と言われることがあるが、良しも悪しきも信じ込んでしまう事、疑う事もなく盲目的に信じてしまう「盲信」である。
お釈迦様は盲信を戒め自らの心で考える事が必要といわれています、頭を取っていけません。
『衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一H一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此よりほかに又もとむる事なかれ。』
『撰時抄』
日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。
『報恩紗』
今、日本社会は疲れているようです。いじめ、自殺、家庭内暴力、離婚、学級崩壊、中毒、カルト教団、公害……さまざまに不幸な兆候が社会の表面にあらわれてきています。
戦後、所得倍増政策に代表されるように、経済的な豊かさを目指し、一応物質的欲望を満たすことはできたようです。しかし精神、心の荒廃と疲労という後遺症が残ったのも事実です。
原因の一つとして知恩報恩感謝の念が希薄になってきたことをあげられないでしょうか。親子の断絶、教師と生徒の対立、政治家不信、まさに仏教でいうお釈迦さまの教えはあっても、それを実践することがなく末法という時代を露呈しているようです。今こそお釈迦さま、日蓮大聖人の教えを実践する必要があります。日蓮大聖人は報恩ということを非常に重んじられました。そしてその対象は、まず肉体をさずけて頂いた父母、精神を教育してもらう師匠、身心を保護してもらう国等の主師親三徳です。そして全ての関連において我々の身心を育て教え護る一切衆生をあげ、真の報恩の為最も重要なものとして以上のことを兼ね具えている久遠実成の本師釈迦牟尼仏の恩徳を説いておられます。
たとえば親の恩。父親がサラリーマンであれば、会社勤めで家族を養ってくれたことが父の恩のひとつです。でもそれだけではありません。父親を働かせてくれた会社にも間接的に恩を受けてます。そして、その会社の取引先、消費者……一切衆生の恩、ひいては久遠の本師釈尊の恩になるのです。
『報恩鈔』は建治二年初夏、大聖人五十五歳身延入山第三年目、清澄の旧師道善坊の死去の報に、昔日の御師に想いを巡らし師恩報恩感謝、追善の為弟子日向上人を使者として、清澄の兄弟子、浄顕坊、義浄坊の両名に送り、旧師の墓前で読誦せしめられました。
この文章は、久遠の本師釈尊に従って南無妙法蓮華経を自分の使命として受け止め、生きとし生きるものすべてを救おうという確信より生まれました。我々は今一度この言葉をかみしめたいものです。
来年は西暦二千年です、又西暦二千一年は二十一世紀の始まりということで、一言申し上げます。
西暦二千年は特別な年?として、様々な祝う行事、まつり、イベントなどが各地で計画、予定されているようです。初日の出、観覧車、特別ツアー、電光掲示板、ホテルの予約…。観光業界も千年に一度の追い風と乗り遅れないよう懸命のようです。更にはコンピューターの二千年問題等と騒ぎはとどまるところを知らないようです。
又、もうすぐ二十世紀も終わるというので、世の中世紀末と何かと騒がしいようですが、果たして世紀末、西暦とは一体どういうことでありましょうか。
世紀という時代区分は西暦より成り立っています。その為紀元はキリスト誕生の年を無理に元年として計算しています。つまり世紀も西暦もキリスト教関係、そして西洋の暦でしかなかったのです。
俗に上等舶来という言葉を耳にしますが昔より日本人は海外のもの新しい物はたいがい優れていると勘違いして?取り入れてきたのでしょうか。特に明治時代にはキリスト教の影響を受けた西洋の文化が大量に入ってきて、そしてそれは太平洋戦争敗戦で決定的となったようです。
例えば商売人を始め多くの人はケーキの日(クリスマス)、チョコレートの日(バレンタインデー)等横文字を使う行事には一生懸命のようですが、東洋の花祭り、花入り十五夜はともかくとして、四月八日の花祭(お釈迦様の誕生日)十二月八日の成道会(お釈迦様が悟りを得られた日)にいたっては一部の人を除いて完全に無視されてしまったような気がします。
ほかにも日本人の象徴である天皇陛下でさえ、外国の要人と会う等正式の場ではネクタイを締め洋服を着ておられるようです。我々も洋服を着ることがほとんどになってしまいました。着物というものがありながら…。暦は日本にも皇紀という年号があります。今年は二千六百五十九年です。仏教国では仏暦(釈尊誕生を元年)を使い、又、イスラム教圏ではマホメット聖遷(ヘジラ)を紀元元年としているようです。
まあその程度だったら時代の流れとして目くじらをたてることではないのかも知れません。
というのは、冬だというのに昔のように寒くなく、温暖化は確実に進行しているようです。原因の一つにクーラー等文明機の使い過ぎがあげられます。昔ながらの藁葺き、障子、泥壁、ふすま等自然と共生、調和してきたものから、特に西洋の影響を受けてか、自然を遮断して自己の快適の為自然を無視、あるいは敵対、犠牲にした生活の為ではないでしょうか。
そしてその西洋の文化圏に多大なる影響を及ぼしたのが、砂漠の宗教であり、人間中心に自然を敵対征服しようとした侵略的な思想を持つキリスト教だったことは否定できないでしょう。
良いものを取り入れ活かすことは大切なことだと思います。西洋、西暦のお蔭で今の生活を享受でき、又世界のことは理解しやすくなりました。しかし西暦を唯一絶対のように考え、昔からの良い生活習慣等無視し、余りに西洋かぶれして世紀末と浮足だつのはどうでしょうか。
和合、自然との調和を説き、そして唯我一人のみ能く救護をなすと云われたお釈迦様の教えである仏教こそ真の意味で世界を救う教えです。来年は教祖でもありインドの地に生を受けられたお釈迦様仏暦三千二十年です。
(佐賀新聞 平成十一年五月十四日投稿掲載された文に加筆したものです。
辻雅英
自我得仏来
所経諸劫数
無量百千萬
億載阿僧祇
【訓読】
我れ仏を得てよりこのかた、
経たる所の諸の劫数、
無量百千萬、
億載阿僧祇なり
この経文は妙法蓮華経如来寿量品第十六の偈文の初まりの句です。
日蓮大聖人は『法華経』を根本聖典として宗旨を建立されましたが、その中でも「如来寿量品」を最重要視されました。『法蓮抄』に「夫法華経は一代聖教の骨髄なり。自我掲は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。」と述べられ、お釈迦さまご一生の教えの中心は法華経であり、その中でも寿量品の自我偈の部分が法華経二十八品の真読を説き顕わしたものであるから、全仏教中の最高位置を占めるべきものであるとみられたのです。
自我偈とは如来寿量品の偈文の部分をさしています。〔偈〕とは偈陀の略でつまり経論の文の一段、または全文の終りに仏の功徳や教理を讃歎して詩句の形式にて述べるものです。偈文の初まりが「自我得仏来」とあるので、初めの二字をとって「自我偈」といいます。又、お釈迦さまの久遠実成(永遠の命)を説き顕わしていることから「久遠偈」ともいいます。
つまり、私が仏になってから経過した歳月は、到底はかることの出来ないものと言われます。たとえば、川には水が絶えず流れています。そこで、目の前の水面を見つめていますと、数秒前にあった水は現在はもうありません。今この瞬間に目の前にあった水は、次の瞬間にはもうないのです。でも川がなくなったわけではありません。
目の前の川に毒を流せば、下流の魚は死んでしまうでしょうし、かきまわせばその濁りは下流までつづいてゆきます。
今日、命あるものすべてはやがて消えてしまいますが、それはたしかに過去から存在し、未来まで影響を与えてしまいます。だから今現在を大切にしなければならないのです。
お釈迦さまは、過去から仏であった自分が、仮に今この世に国王の子として生まれ仏になる修行をして成道することが出来ました。これは全てこの地上の生とし生けるものを救う為です。
「資質」という言葉が言われています。今の世の乱れは政界人、財界人、役人、宗教人の「資質」の悪さかも知れません。本来「資質」とはその人が生れつき持っている性質とあります。しかし、仏様は人は生れつき平等であり元来「資質」の悪い人はいないのであります。
ただ育っていく過程に於いて様々な要因が働き性質が変化するのです。
「資質」の悪さとは、その仕事に就いた環境により決まってしまうのかも知れません。悪を悪と認識する眼を育てる事が必要です。仏様の慈眼は全ての事を見通しておられます。
願諸衆生 諸悪莫作
諸善奉行 自浄其意
「修行」というと昨今では変なイメージが頭をよぎります。本来の修行とは仏法に従って善事を行うこと、つまりお釈迦様の教えに従って善根功徳を積み、私達が仏に成る努力、行を修める事なのです。
この「修行」の方法としては色んな行がありますが、その根本は日蓮大聖人がお唱えになった南無妙法蓮華経を口に唱え、心に持ち、身で実行する事です。身や心を水行や読誦・唱題によって鍛錬し、仏様の智慧を私達の身近に観じて自分だけの幸福でなく、他の人々の幸福をも願う事が大切なのです。
お釈迦様のお教は全ての人々の救済が中心の考えです。昨今の新々宗教をみると自己の救済に重きがおかれ、他人はどうでも良いという考えが問題といえます。「慈悲」とは互いを慈しむ心、悲しむ心なのです。決して自己満足の心ではありません。
この慈悲の心は常々の家庭の中から生まれてくるのです。仏壇の前で親が手を合わせる姿、その背中を子や孫達は学ぶのです。
私達は一人で生きているのではない、多くの人々のお陰で生かされているという自覚を持つ事、自らが考える事が一番大切な事なのです。信仰にマニュアルはありません。
「備えあれば憂い無し」という諺がありますが、此の度の阪神大震災では備えも余り役に立たなかった様な気がします。大自然のエネルギーは、人間の浅はかな知恵など到底及ぶものではありません。技術の粋を尽して建てた近代的なビルがもろくも崩壊してしまいました。
お釈迦様のお悟りの一部は大自然、大宇宙との関わりといわれています。
法華経を信じお題目を唱えて、色(身)に心に日蓮大聖人の教えを実践し慈悲の心を持って生活をする事が本当の備えというものでしょう。
「光陰矢の如し」と申しますが、本当に月日の経つのは早いもので春のお彼岸がやって参りました。年が明け寒い寒いと申しておりましたが、梅もほころび春の日差しを受け、草木も芽を出し暖かい気候となり、私達の心までもが明るくなってくる気がします。
この様に暖かく活動しやすくなりますと色々な事が出来る様になります。私達の御先祖様は、年間を通して仏道修行の行い易い時期はいつ頃だろうかと考えられ、春と秋の時期を選択し、一週間づつ期間を設定され、この間に仏道修行に精進する事を決められました。実は、これが春・秋の彼岸の発端なのであります。そして、その彼岸は、世界中でも日本だけにしかない国民的伝統行事なのです。私達は、せっかく先祖が残してくれたこの大事なものを真摯な態度で受け止め、行動に表わして行く様努めなくてはなりません。
では、「彼岸」とはどの様な意味があるのでしょうか。彼の岸と書きますが、彼の岸とは、仏様のお悟りの世界の事で汚れのない純粋な清らかな世界を言います。
これとは反対に「此岸」という言葉があり、此の岸、即ち私達の住む汚れきった煩悩で満あふれた世界を言いつまり彼岸とは、この汚れきっている世界から清らかで汚れのない仏様の世界へ渡ろうと努力精進する事を申す訳であります。
ところで今の世の中はどうでしょうか。人の幸せより自分の幸せを追求し、お金、名誉、地位を貧り愚かな事ばかり繰り返しているのが現状です。自分が幸せになる為には、他人の命までも奪い、それどころかもっとひどい事には我が子の命までも奪い取ってしまうという凶悪な犯罪も起こりました。これでは到底彼岸の世界には行けません。誠に悲しい世の中です。
彼岸というのは決して難しい修行をしなさいという事でなく、自分の幸せを求める事よりも、少し周囲の人達にも目を向けて、周囲の人達の幸せというものを考え、その為に少しでも実践してみましょうという事なのです。
日蓮大聖人は「彼岸抄」の中で「それ彼岸とは春秋の時節の七日、信男信女ありて、もし彼の衆善を修して小行をつとむれば、生死の此の岸より苦海の蒼波をしのぎ菩提の彼岸に到る時節なり。ゆえにこの七日を彼岸となづく。この七日のうちに一善の小行を修せば、必ず仏果菩提を得べし。余の時節に日月をはこび功労をつくすよりは、彼岸一日の小善はよく大菩提に至るなり」
と仰せになり、彼岸の間に積む功徳は大変素晴らしく、又それが例え小さな善行であっても功徳の大きなものになるのですとお示しであります。
自分の幸せよりも他人の幸せを願い実行出来る人、この人を菩薩と申します。そして、その行いを菩薩行と申します。右の頁に説明があります様に、この彼岸の間に六つの行いをしなければなりません。六つの全部とは申しません。自分の出来る行いから始められては如何でしょうか。さっそく彼岸への第一歩を歩んで下さい。
今年の一月十七日、かつてない未曽有の大惨事が兵庫県で発生しました。恐らく皆さんはテレビの報道にくぎづけだった事と思いますが、その報道の中で大変嬉しかった事は、大地震発生直後より全国各地から何万という老若男女の方々が自分の仕事を放棄し、ボランティア活動に参加され救援活動をされている事でした。まさに地獄の世界に佛の世界、彼岸の世界がある、これだと感銘しました。
人間本来、仏になる種を持っています。種は持ちながらなかなか芽を出しません、しかしながら芽を出させようと真剣に志を持った時に人間は仏になれるのです。お自我偈の中に「一心欲見佛・不自惜身命」即ち「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自らの身命を惜しまず」という救えでありますが、これは、本当に彼岸に行きたいと思うならば、自分の命さえも惜しまないという程の真剣さが必要であるという事を私達にお示しの言葉であります。
日蓮大聖人のお言葉に「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。」
とあります様に、彼岸にあたり心の財を大切にして参りたいものです。
仏教にはさまざまな行事があります。特に春・秋のお彼岸、お盆などを営みます。お彼岸は本来私達の仏道修行の期間ですが、お盆と同じように御先祖様の供養も同時に営みます。
お盆の棚経を終えてふり返ってみますと、仏壇に御本尊様がおまつりしてない家や、中の掃除もしてなくホコリだらけの家もあることです。さぞや御先祖様はなげいておられることでしょう。
仏壇は家の中心です。正しくおまつりをしてお題目を唱え、明るく、温い家庭を築いて下さい。
私たち、日蓮宗の信徒は、御会式を迎えるにあたり、ただ漠然と法要を営むというのでは悲しい気がする。日蓮大聖人が我が命に替えても末法の世を救済せんが為、お釈迦様の本当の教えである法華経とそのエキスのお題目を弘められた事を思う時、私達はただ単に歴史的な流れとして受け止めるのではなく、日蓮大聖人の御心に真剣にふれていく気持ちを抱く事が大事である。
この一年間、いわゆる昨年の御会式から本年の御会式迄の間、自分のお題目信仰が如何様であったか、空題目になっていなかったか、心の底からの本当のお題目を唱えていたのか、反省の起点とすべきである。この反省なくしては漫然としたお題目信仰になり、そこには何にも向上は生まれない。反省をし、新たなる精進をお誓いし、宗祖に御奉告申し上げるのが本来の御会式の意義である。
私達は、仏子であり宗祖の弟子であるという自覚を持ち、強盛なる法華経の信者として努力すべきであろう。
今は、末法のど真中、今こそ法華経の実践の時期である。自分だけが幸せになればいいというのでなく周囲の人々全てが幸せになってもらいたいという菩薩の心を持つ修行が大事になってくる。
自分の事よりも周囲の人に対して素直に合掌が出来る人間になりたいものだ。
この一年間、合掌のある素晴らしい生活を営み、本当のお題目をお唱えして頂きたい。
日本は世界一、経済・物質に恵まれた豊かな国といわれていますが、真に生活のゆとりと満足度は十分でしょうか。
私たちは、一つの願いが叶うと、更にその上を望んでしまいます。そこには心の満足はなく、それだけでは決してしあわせとはいえないようです。
その為にも、精神面の修養により、より心豊かな生き方が必要です。そしてそこにはよき指導者がいなければならないでしょう。
既に現役の野球選手から引退した王さんが、テレビで「私がホームラン王になり、満足できたのは、荒川さんという名コーチにめぐり会い、私をとことん鍛え指導してくれたおかげでした。」と述べていました。精神、心の世界でも同じようによき指導者にめぐり会いたいものです。
日蓮大聖人は「法華経の観心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども二陣三陣つづきて…」(種種御振舞御書)
と申されております。
つまり仏(釈迦)の本心、魂は妙法蓮華経とさとられました。そして、それを口だけでなく、身、心に南無妙法蓮華経とたもつことによりすべての人々の仏の心を開き、真にしあわせな仏の国土を建設する道を指し示していただきました。
御会式に臨み、身命をかけて私たちに御題目を伝えてくださいました日蓮大聖人の遺徳を偲ぶと同時に、私たちに末法の世を生き抜く指針を示してくださった偉業を今一度顧みなくてはなりません。